気晴らし 7/3
この1週間、”息抜き”に国際会議の現場に受付を含む雑用係で出ていた。昨年にこの手の仕事を一度受けた事があり、1週間はちょっと長いかなぁと思いながら、ま、いいかと毎朝9時までに現地に出勤していた。日本の中央省庁のみが使う会議場である。かつては同時通訳者として当時の通産省、厚生省、文部省主催の国際会議をこの会議場で手伝わせて頂いていたが、今回は誰が通訳をするのか、知っている人に逢うのか、それも楽しみだった。
だが、この会議には通訳者はいない。主催者側の日本人がどうにかこうにかチーム一丸となってやりくりしていた。かつては3階にある同時通訳ブースから私は会場を見降ろしていたが、今は会場からブースを見上げる。明りも灯されず暗いが、あの頃の慌ただしい時間が懐かしく思い出された。
今回の会議はアジア諸国気象会議。自然災害の観測予測の現状報告と情報交流。羽田空港の管制塔視察などもあった。羽田空港の管制塔視察時には日本側からの説明は事前に全文英語にされ、担当者がそれを読みあげるが、難儀なのは質疑応答の部分。受付作業には5人が当たっていたが、私に通訳が任された。長い間やっていないので、ほんの少し不安でもあったが、受付係に依頼する程度の通訳だから大したことはないだろうと軽く受けた。だが、当たり前と言ったら当たり前なのだが、彼らの質問は結構専門的。このイベントの主催者及び関係者は私がいたことで、ラッキーだったかも(うぬぼれです)。たまたま息抜きで私が来たことで、経費削減で通訳者を使わない国際会議の日本側主催者および関係者は、彼らにとって難関の質疑応答の時間を難なく切り抜ける事ができたし、私自身も久々の通訳に、全然錆びていないなぁと思わせて頂いた。またやってもいいかなとほんの少し思ったかな。脳に酸素が行き届くほどの通訳ならね(通訳はものすごい集中力で人の話を聴いているから、頭がパンパンとなって来て、段々と言葉が全く入って来なくなるのね。だから15分とか30分交代で回すんです)。
様々なアジア諸国が参加していたが、ロシアのカムチャッカ半島から女性が二人来ていた。2年に一度はモスクワに行くらしいが、同じ国の中を飛んでいるにも拘らず、モスクワまでは9時間、時差も9時間だとか。ゴルバチョフ政権時に行った私のソ連旅行の話をし、共産圏から自由主義圏に入った感想のところでは、「私たちはプーチンが好きよ」と言っていた。もう一人会話をしたのがインドからの出席者。「日本の御もてなしには本当に感激します。はっきりとした宗教が無くとも、そのような心を持てる事が素晴らしい。」・・・・ん?私の中で風鈴が鳴った。丁度読んでいた、座禅経験者の話:宗教を持たなくとも座禅をしているだけで悟りを得、宇宙の芯につながる。
この会議の最終日となった今日は、朝から土砂降り。東京では今年一番の大雨。アジアの気象関係者への心からの歓待か。
兄逝く 7/4
一昨日、長兄の妻から電話があり、四兄が亡くなったと知らされた。心臓発作だったらしい。本人の遺言で、内輪だけで静かに家族葬を執り行ったと聞く。兄達が四人いたが、全員あちらに逝った。この四兄のお迎えは誰だったのか、彼が最も親しく思っていた旧家族は誰だったのだろう、そんな事を思ったりしていた。
彼らの状況を考えると仕方のないことだったかも知れないが、物欲の大変強い兄姉達だった。父が亡くなってからは遺産相続で兄姉の間、姉甥の間で訴訟問題が疲れも知らず相手を変えて続けられていた。私は彼らの近くにいた事が少なく、また物欲よりも内面の広がりに心が向いていた事や、邪な考えを一切持たず争わない人達が夫であった事もあり、兄姉のもめ事を傍観していた。父が生きていた頃は大家族が賑やかに集まり、家の中の長い廊下は長兄の長男をリーダに甥や姪が駆け回る運動場になっていたが、今では付き合いは完全に閉ざされた。兄弟姉妹が分断すると、その子供たちまで分断する。私にしても、実姉より義姉(長兄の妻)と親しく、義姉にとっては私だけが唯一連絡を取り合う小姑である。
今日はゆっくり起きて仏壇に手を合わせ、父母を始め兄達の名前を一人一人声に出しお経を読誦した。お経はあちらに届くと言う。穏やかに閑かにそちらで過ごされるように!
今日は午後から三田の龍源寺の禅の会に参加。
しょうもない話 7/4
龍源寺の禅の会に参加した後は池之端に行くつもりでいた。前回のライブ時に化粧ポーチをお店に忘れて来た事もあり、ついでにゆっくりと不忍池を歩いて来ようと思ったが、FB上で鳴り物入り講演広告を目にし、満員御礼とあったので、万一キャンセルがあればと申しこんで置いた講演会に空きができたと連絡が入った。20人の待ちがあると言っていたにも拘らず、私に至るまでのキャンセルがあった事が腑に落ちない。だが、「不可能の壁を破る人間が次々に現れる時代が来た」と人目を引くタイトル、とにかく行く事にした。
だが、その内容たるや、実は講演者の顔写真を見た時から期待できるものではないように思ったが、非常にお粗末。自称科学者らしいが、ダジャレのオンパレードで人は楽しむものだと錯覚しているようだ。話の内容は此処で取り上げる気もしないので割愛するが、とうとう、一人の初老の男性が顔を赤らめ苦笑を漂わせて席を立つ。私の隣に座る若い男性二人はけったるい表情で席に座り続ける。その前には何も書かれていない白い紙とボールペンが置かれたまま。周りの人達はどんな表情で聴いているのか私は見回す。今でも立ち上がりそうな私を主催者のおそらく御主人であろう、不安そうに見ている。こんな事ではダメですよと、私は立ち上がった。部屋を出て行こうとすると、主催者の女性がエレベータホールまで追いかけて来て言い訳を始める。「Excuseをしてはいけませんよ。今何をしているのかそれが全てです」と私は返した。
小雨降る不忍池を歩いた方が、余程清々しかっただろう。
龍源寺の禅の会の後、白金高輪で立ち寄った蕎麦屋のそばが実に美味しかった。結構な金額なので一瞬入るのを躊躇ったが、小さな店に大きなテーブルが3つ、調理場には4人。これはきっと美味しいのだろうと座ったが、ピンポ~ン。裏切らない美味しさに喜んだまま不忍池に行くべきだった。
禅は私がこれまでやってきた瞑想とは異なる。禅はありのままを受け入れ心穏やかにするようだが、私がして来た瞑想はどちらかと言うとイメージトレーニング。後者は人類光明化と宣言されただけあって、この瞑想をする人達は静寂の雰囲気ではなく、エネルギーが漲り明るく声を上げてよく笑う。今のままで良いが、たまたま読んで来た本に触発されて、禅の世界を覗いている。これはこれでよし。
「禅とは悟りに至る道の事ですか」
「目覚めです」
「目覚めに至る道、道ですか」
「う~ん、道・・・・」
住職との短い会話だった。正面から見ると耳が長く、恵比寿様のような顔をしていらっしゃる。谷中の全生庵で説教された坊さんのように説教に威張った感じが(これには「おや?」)無く、その穏やかな話し方は、また来てみようかなと思わせた。
兄逝く#2 7/5
思えば、私は常に兄姉から離れた場所に置かれていた。一緒に過ごしたのは小学校5年の2学期まで。かつては皆仲が良く、父の仕事を全員で手伝っていた時代もあった。家族が東京から仙台に引っ越しをし、そちらで小学校を1学期間だけ過ごすと、私は一人東京に送られ、中高大の課程を終えた後は、アメリカに行った。仙台に行くのは学校が休みの時だけ。その休みに帰ると、大げさな歓迎があった。
「お~、しずこ~大きくなったなぁ~」とまるで自分の子供を抱くように、長兄が私を抱き上げる。長兄は表現がオーバーだった。私は恥ずかしてたまらないが、嫌だとも言えずに、降ろされるまで堪えた。帰った当日は、兄姉が私を取りっこする。「誰と寝る?」俺だ私だとじゃんけんする。毎日私の床が変わる。お務めなのだ。忘れもしないのが、四兄と寝た時。足の毛がもじゃもじゃ。その足をしっかり私に巻き付けてくる。落ち着いて寝られない。夜中にそっと起きて、母の寝床に忍び込んだ。翌朝、傷ついたかなぁと罪悪感があり、四兄の顔を見る事ができなかったが、兄も何かを感じたのだろう、それから一緒に寝ようと言わなくなった。
仙台に引っ越しをする前は、東京大田区に住んでいた。父は小さな町工場を持ち、何をしていたのかきちんと訊ねた事も無いが、私が知っているのは、すでに廃業となり機械だけが置かれた小さな工場で、近所の子供たちと隠れんぼをやって遊んだ事。戦争で負けて貧しくなった日本は、朝鮮戦争で豊かになって行った。朝鮮戦争が終わると、父は工場を畳み、仙台の友人を頼りに新商売を探しに行った。その間、東京では母が旅館の浴衣を縫ったり、何かバッグのようなものを作ったり内職をして長兄を除き7人の子供を育てていた。その頃に嫁に来た長兄の妻は大変だったろう。またその頃は四兄が中学に通っていた時でもあったが、母の一生懸命内職する姿を見て、兄は修学旅行の事を言い出せず、その日は黙って窓際に座り行き交う人達を眺めていたらしい。四兄と私の間に入る三姉が「なんで今日は学校に行かないの」と訊ねたと言う。
四兄は絵が好きだった。私は学校の教科の中で絵が一番苦手。遠足に行き感想を絵で表す宿題が出ると、四兄に描いてもらっていた。一度、トラが描かれた。どうしよう、行った動物園にトラはいなかった。。。。だが、私はそれを言えない。なぜそうだったのか今でもよく分からないが、重要な事、言わなければならないと知りながら言いだせない。相手の勢いをくじいてしまう済まなさがあるからか、進んでしまっているものを止められないのか、言わなければ誤解につながると知っていながら、言えない自分がいた。今こそ「言わなければいけない」と自分に鞭して言えるようになったが(瞑想のお陰だと思う)、それもここ数年の間に変わったことだ。トラの絵はそのまま教師に提出したが、教師は何も言わずに受け取った。明らかに誰かに書いてもらったものだと分かるが、それでも自分で描くしんどさより良かったのだと思う、おそらく。ある年の私の誕生日に四兄はラップされリボンが結ばれた箱をニコニコと私に差し出した。箱の中には綺麗なクレヨンが並んでいた。
今朝またお経を読んでいると、涙がぽとりぽとり落ちてくる。もういないのに、四兄の携帯を鳴らす。落ち着いた頃、彼の家に電話を入れた。「苦しまずに逝きました?」「たぶん」と四兄の妻が答える。6月11日、元気よくゴルフに出かけ、突然の発作で逝ったようだ。姪(長姉の娘)が色々と教えてくれる。四兄は自分のすぐ上になる次姉を慕っていた時があった。11日の前日、二人は久々に電話で話をしたらしい。そして翌日次姉は彼女の友人達とゴルフに行く予定だったが、いつになく体調が悪く初めてゴルフを取りやめたとか。
2~3週間ほど前だったか、ほとんど見る事のない昔の手書きの電話帳を取り出すと、どちらにも四兄の名前だけが目立っていた。久々に兄を想っていた時間が私にもあった。虫の知らせだったのか。
生まれる時と環境が違っていたら、画家になっていただろうか。芸術家だっただろうか。いい兄貴、いい姉、いい妹に囲まれていたかっただろう。ことごとく裏切られたのかもしれない。情が厚く感受性の強い兄だった。いや、家族は全員情が深い人の集まりだった。"冷たい"という形容詞は誰にも当てはまらない。だから、喧嘩をしても何かのきっかけで再会してはまたつながる事を何度も繰り返していた。そして何度もまた。。。(@_@;)(●^o^●)私が四兄にして上げられた事はただひとつ。彼の子供二人(当時小学6年生と4年生)をロスに呼び彼らにとって初めての海外で思いっきりの御もてなしをした事かもしれない。娘はその後カナダに留学し、結婚するまでJALのスチュワーデスをやっていた。私はあの子たちを心から愛した。
「子供は良いぞ~!」とよく言っていた。父が長兄ばかりに”特別手当”を与えたため、父の愛に憧れを頂いていた四兄は自分がそうしてもらいたかったように、子供達を愛し家族を愛した。
克夫兄さん、49日には会いに行きますね。
ライブ案内 7/7
今日は私の誕生日。ライブ案内は大体1か月前にしていますが、誕生日まで少し待ちました。7月7日以降から色々な事が起こりそうな、始まりそうなワクワク感とドキドキ感。それで線引きをしたかったのかもしれません。このブログも年ごとに書く事が多くなり、12か月分を記載するには重すぎて段々と動きが鈍くなりましたので、7月からは新しいページにしました。6月以前のものは「過去ブログ」からリンクさせてあります。
ライブは、事情があり、いつもより前倒しで、8月4日(火曜日)、そして、これが2015年の最後のライブになります。そう言ったら、来年はどうなるのと訊ねて下さった方がいました。いつも通りかな、変わるのかな、先の事はまだ分かりませんが、いい意味で後者だと良いかなぁ。
日時: 8月4日(火曜日)19:30開演 (19:00開場)
場所:池之端QUI
詳細は、「出演」欄をご覧ください。
今年最後のライブ、これまで皆さんから「いい」と言われた歌を中心に賑やかに終えられたらいいなぁと思っています。是非いらして下さいね。
それと、宣伝しておくのでチラシを作って下さいと言う、とてもありがた~いお言葉を頂き、チラシも作りました。
幸福の木 7/7
我が家にやって来たクワズイモ。10日ほど置いてみるといろいろと厄介な事が見えて来た。水やりをすると根から吸い上げた水が葉からぽたぽた床に落ち、床には水染みがつく。それが数日間続く。南側に面した窓という絶好の環境に置かれたためらしい。今後水やりの度にこうなると考えものだ。また、環境がいいのか、僅か10日間ほどの間に新しい茎や葉が延びて開いて、家に来た時には丁度いい塩梅の茎と葉の数が既に2本(2枚)も増え、この先はにょろにょろとグロテスク感を表すのではないかと、今日、新しいプラントに替えてもらった。手間のかからないもので、私の部屋に似合うものという事で選ばれたのが、マッサン。「あら、NHKの朝ドラのタイトルね」と言う私の頭の中にこのドラマの主題歌を歌った中島みゆきの名前がすっと通りすぎた。
このマッサン、別名「幸福の木」と言われるようで、運ばれて来た本体に付いていたタグにその名が印字されていた。「幸福の木かぁ」と私はニタ~と笑ったような気がする。誕生日に運ばれて来た縁起のいい木なのかもしれない。
梅雨の合間 7/10
梅雨の合間に見せる青空か、または真夏への入り口か、久々の陽ざしに朝からベランダに出て洗濯ものを干す。
洗濯物を干したり、布団を陽に当てるのが好きだ。最近の高層マンションは、洗濯物を外に見せないよう竿を支える金具がベランダの手すりの下に付いているし、布団も日に干せないようルールが設けられている。マンション住まいの長い私は、その無機質さへの誘いに抵抗して、背の高いポールを立てて衣類が燦々と陽を浴びられるよう、工夫している。一枚一枚ワッカのクリップに挟めたり、大きいものは竿にひろげていると、その一枚一枚の活動がうっすら記憶の中に映される。思い出して微笑む事もある。愛する者の衣類を干す時は、それを扱える幸せを感じたものだ。
洗濯物が干されているマンションや家屋を見ると、何かほっとした感がある。干している人の思いを想ったり、どんな家族なのだろうと束の間想像をめぐらす。
雨が続く中、セールという誘い水に、数年分の靴下を15足昨日買った(合わせて1680円)。一番最初に選んで履いているのがアーミー系、気恥ずかしいような嬉しいような。。。。窓を全開し、鳥のさえずりと車の音、そして消防団の渇を入れる声を聴きながら、さあ、今日はあれをしよう、これをしようと考える。幸せの一時なのだろう。
希望がない―資本主義の崩落? 7/11
すごいタイトルをつけてしまった。( ^)o(^ )
自衛隊を”公海”に派遣するために、自民党が現在通そうとしている法案は平和と真の民主主義を脅かす違憲だと、若者たちが1万人以上国会周囲に集まりデモ抗議をしたと言う。1,000人規模から拡大したらしい。スポーツジムでランニング・マシンに乗りながら見ていた民放番組で報道していた。そのデモの様子が、60年代の安保反対を叫ぶ学生デモとは異なる雰囲気があると言う。そうだろうなぁと私は思う。人種が変わったのだ。以前から何度もこのブログでも書いて来たが、今の若者たちは、昭和のど真ん中に生きた人達と人種が違う。もちろん色々な個性があるだろうが、今の30代以下の若者たちは一方的な感情に走る事が無いようだ。行動にスタイルがあると言っていいのだろうか、野蛮じゃない。均一的だ、個性が無いとも言われるが、熟成した日本社会から生まれるとこうなるのかなぁと想わせられる。また物欲が薄れるとこうなるのかもしれない。
デモ参加者のスピーチに村上龍の「希望の国エクソダス」の中の言葉が引用されていたと言う。その言葉がどのように使われていたのか、詳しい事は語られていなかったが、その言葉とは「この国にはなんでもある。だが、希望だけがない。」
私はこの本を読んでいないので、なんとも言えないが、ここでいう「希望」とは物欲の事だろうか。家を持ちたい、大企業に就職したい、名声が欲しい・・・「傲慢になるのは恥ずかしい事だよ」、そんな言葉が歌の歌詞にもなる時代、希望は無くなったのではなく、内面に向けられたのではないかと私は思う。敗戦後、日本人は米国のゴージャスな生活を映画やテレビで見ながら、あのような生活が夢だった。そして、それに近づく事が希望だった。だがそれが達成された時、つまり物欲が満たされた時、人間は内面の広がりに向かうのだと思う。外見の豊かさから内面の豊かさへと。
人間というものの本来の姿を考えれば、自分を磨くと言う希望がなくなる訳はない。ただ、磨く面が変わった。"俺さま"の時代の終焉なのかも知れない。
先日観ていた日曜日の「久米書店」で、面白い事を言っていた。銀行にお金を預けたり、株投資をする人は資本家である。彼らは投資して利潤を得る。国にものが無かった時代は、欲しいものが沢山あるのでそれを造るために資本家を集める。だから投資利潤が高い。銀行の利子も高くなる。だが、欲しいものがそろってしまうと、物を買わなくなる。由って作ろうともしなくなるので、資本家を必要としない。そのため銀行利子も上がらない。これはまさに今の日本であり、これ以上の経済発展はいらない、必要なものは十分にあると思う人も増えている。すると、これはまた資本主義の崩落を意味するのかもしれないと、番組は話していた。
ずっと色々な本を読んでいる。6月のブログで話した田口ランディ―の対話集の中で引用された本の中に、元日本テレビアナウンサーで夫の赴任先ニューヨークで座禅を始めた板谷翠という人の話に想う事が多い。一度の座禅体験に心の変化を感じ、僅か9回の座禅で「時間はないのだ」と目覚めたと言う人の話。70年間僧侶でいても悟りに至らない人もいれば、9回で宗教も持たない人が気付きを得る場合もある。あ~、やはり人の努力じゃないんだと思わせられる。無心でいる事、心の声に素直に応じる事なのだろう。その彼女が1996年に天からのメッセージとして書いた、「光の歌」の内容に驚く。2000年代に起きる事が書かれてあるのだが、全てそのまま起こっている。日本の大地震、火山噴火、米国による他国侵略などなど。
そのメッセージによると、これからはいい時代になるらしい。共に思いやり人類愛に向かう時代であり、人間を宇宙規模からみる時代。だが、それは既に歌にも表れている。昭和の時代には書かれた事が無いだろうと思うような歌詞で歌を書いている人達がいる。私もそのひとりだが、谷村新司、そしてうっすら中島みゆきもその方向に進路を変えて来ているようだ。一個人、一民族、一国家という限定された枠から自分を解き放ち、人間が宇宙と調和して行く時代に向かうようだ。
物欲が薄まれば、おそらく資本主義は崩落するのかもしれない。洗練された形で、昔々の人間達の姿に戻るのだろうか。
えこ贔屓 7/12
7/11の日経ビジネスで、島地勝彦(雑誌編集者)が今東光、柴田錬三郎、開高健とのエピソードを語っている。その中のシバレンの話。
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シバレンさんはよく「民主主義的な人生なんて最低だ」と言っていた。民主主義とか平等というのは、社会を維持するための大義名分で、人生はそんなもんじゃないというわけ。その実例を俺に見せてくれたことがあったな。
シバレンさんは当時日本一の売れっ子作家だったから、当然立派な家があったんだけど、「ぬるい幸福は物書きをダメにする」と言って高輪プリンスの一室を仕事場にして、執筆時は殺風景なホテルの部屋にずっとこもっていたんだ。執筆が佳境に入ってくると2日間くらい眠らない日は珍しくない。
そうは言っても、誰もいないホテルの部屋で一人でずっと書いているから、人恋しくなるんだろうな。深夜の編集部にしょっちゅう電話が掛かってきた。「まだ仕事は終わらんのか」って訊かれるから、「あと2時間くらいかかります」と答える。そうすると「それでもいいから来い」。
2時半ころにシバレンさんの部屋にお邪魔して、それからずっと朝まで話し込む。こっちは週刊誌の仕事で書かなきゃいけないものは山積みだし、眠くてしかたのない時もある。「先生、すみませんもう眠くて」と言うと、まあ「何か腹に入れろ」って引き止める。もう夜中の3時も過ぎているから、ルームサービスだってやってない。「先生、こんな時間に何もないですよ」と言っても「何でもお前の好きなものを食わしてやる」と言い切るんだ。
こっちは、無理だろうと思うからわざと「じゃあ、鰻重を食わしてください」って言ったら「おお、そんなもん簡単だよ」。受話器を取って「柴田ですが…」と言って鰻重を持ってこさせた。無茶苦茶だよな。コックが可哀想だよ。そう言ったらシバレンさんは言ったね。
「ここのコックは俺を尊敬している。『先生、何時でもお電話ください。厨房の灯りをつけて先生のお好きなものをお作りします』って言ってくれている。だから、俺はあの男に頼むし、あの男は俺に作ってくれる。それをお前に教えたかったんだ。いいかシマジ、平等や民主主義なんてものは人生に何も生んでくれやしないんだ。上質な脳みそに裏打ちされた、えこ贔屓を享受できる人生を歩まなければダメなんだよ。えこ贔屓されるようにならなきゃ一人前とは言えない。皆と同じように行列に並んでいてはいけないんだ」
まだ若かったから、この言葉に衝撃を受けてね。うらやましさと悔しさの入り混じった何とも言えない気持ちで、でも、シバレンさんの言う通りだと思った。俺もいつかえこ贔屓される人間になろうと思ったね。
シバレンさんしかり、今さんもえこ贔屓される人だった。開高さんも全く同じ。この3人は揃って、えこ贔屓される理由と技を持っていた。えこ贔屓される場面を見せてくれて、その大切さを話してくれた。間違いなく俺がこの3人から一番教わったのはえこ贔屓の大切さだね。
有名なら、カネを持っていれば、権力があればえこ贔屓されるかと言えば全然違う。カネをいっぱい落とす上得意の客が、それだけで特別なサービスや心遣いを受けられるかと言えば、そうじゃないよな。特に物書きの世界なんて、わがままで威張り散らしたのが少なくないから、いろんな場面を見てきたけど、面従腹背、陰で笑われている人も多いんだ。
シバレンさんが言ったようにえこ贔屓されるには上質な脳みそが必要なんだ。上質な脳みそを土台にした人間的な魅力があってこそ、周囲の人間はこの人のために何かしてあげたい、この人に喜んでもらいたいと思う。
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一つ上のブログと対比しておもしろい。そもそも、エゴを持って生まれるのが人間だから、人間が集まっている限り、民主主義も平和も架空の話だ。不平等の行き過ぎを牽制する柱としてその言葉があるし、また理想なのだろう。ずっと昔に読んだ堺屋太一の本に、機会平等と結果平等に関する話があった。米国はこの機会平等であり、最も社会主義的な国と言われる日本は結果平等だと。能力にあまり関係なく結果平等だから(年功序列がその類だったかも)、能力が違っていても結果が平等でなければ嫉妬するのだとか。米国のようにCEOのタイトルに支払われる莫大な報酬もどうかと思うが、能力にふわさしい、当然のえこ贔屓はいい。だが、これを”えこ贔屓”というのだろうか。
やっと完成 7/12
昨年の12月に作った「僕は神様じゃない」と「両手をひろげて」、アレンジが終わってもずっと閊えていた。おざなりの言葉、言いたいことを網羅していない欠如感。それらを解決したメロディーと歌詞、構成が数ヶ月前にでき上がったが、アレンジャーの手が塞がっていたり、その間にまた新曲が生まれたりしたので、この2曲の完成が延び延びになっていた。
それがやっと今朝完成。12月の時に携わってくれたアレンジャーのセンス、今回のアレンジャーのセンスが合体して完成度の高いものができたと思う。「僕は神様じゃない」の最初のバージョンは”箸休め”的な感じが無きにしもあらずだったが、それ以上の役割を果たせるかな。「両手をひろげて」も歌詞の推敲を繰り返し、どうにか満足できる仕上がりになった。
8月4日のライブでお披露目するのが楽しみである。この日のライブは新曲が7曲もある。
やっぱり逢えた 7/14
私が歌づくりをする事が神の御心ならば、しっかりした出口へと誘う人が必ず現れるはずだと疑っていなかった。「案ずるな」という私だけに聞こえる声があった事も、大丈夫だと私に想わせた。鉄砲を100打てば一つは当たると言うやり方は選ばなかった。内奥から湧き起こるなにか、または偶然の出会いか、私の体の全細胞を脈動させる何かが起きるまで動かないでいた。そしてその時を天に任せ、時が与えられたら、動く。すぐ、動く。
そして今日、若松宗雄さんに逢った。若松さんはかつてソニーに所属、松田聖子を世に出した人。その他にも藤あや子他色々な歌手をデビューさせている音楽プロデューサーである。
私の中には一つの法がある。それは宇宙の芯とつながり始めて分かって来たことだが、何かをする時または誰かと逢おうとする時、それが神の御心ならば、私に与えられた特徴に無理のない方法でスムースに事は進められる。昨日藤あや子がテレビ番組で若松さんの話をしていたが、彼の藤あや子に対する取り組み方が私の関心を惹いた。直ぐにネットで検索し追跡していくと、「この人なら」という想いが漲った。必ず彼に会う、明日。そう、明日。。。夜は寝つけなかった。
そして今日を待って朝10時過ぎに若松さんの会社に電話を入れると、直接ご本人が出られた。そして夕方に渋谷で逢う事に。
自分の勘を信じひたすらその実現に向けて進む・・・彼の話は隅から隅まで理解したし、同感した。話を聴きながら、私の中では「やっぱり逢えた!」と温かい体液が身体の中を流れた。「ん?」がない。気になる窪みが無い。私が見て欲しいものが、彼の見たいもの。何よりも、彼は歌が何かを知っている!それは私の想いと変わらない。宇宙の波動、調和、占い信奉、ゴルフ等共通点も少なくない。楽曲を焼いたCDを2枚お渡しした。直ぐに聴きますと言って下さった。これだと思われたら行動がものすごく速いらしい。私と似ている。嬉しいし頼もしい。
「趣味はなに?」
「趣味というか、応援して下さる先輩達がゴルフをしているので、一緒にゴルフをしています(ハンディー40で、”趣味”と言うには・・・(*_*;)」
「ゴルフも歌も同じなんだよね。力を入れたらダメなんだ。人生もそうだな」
「・・放っておけるようになりました」
「・・・・・どうやってそれができるようになったの」
「沢山本を読みました」
「本だけでは、そうならないよ」
「毎朝瞑想をしています」
「瞑想は良いよ、うん」(瞑想が分かる人なんだぁ・・・!(^^)!)
歌子さんから、誕生日の7月7日は東京にいなさい。その後からこのスケジュールになりますよと渡されたグラフ通りに進んでいる。私がそのグラフに合わせている訳ではない。今起きていることをグラフで確認しているだけ。7月7日は意図したわけではないが、FBで沢山のバースデイ・メッセージを頂いた事や、ライブのお知らせを一斉配信したのでその返信やら、姪からの電話で、東京から出なかったどころか、火曜日でジムも休みなので、一日家にいた。そして今日は、Ambitionが高まると示されている日だった。
そう、私はずっと音楽”プロデューサ”に逢いたかったのだ。信じるものが同じなら何を憚ろう。
「あじさいの花」 7/16
生活の周りは全て創作の種。四兄が亡くなり、ストーリを少し変えて「あじさいの花」を作り始めた。ボワ~ンと衝動に押されて作る時もあるが、今回は初めてチリチリと作り始めた。こうして作り始める歌はテクニックに偏り、どちらかと言うと面白くないと言われるけれど、元々技術は持ち合わせていないから(あは)、自然に仕上がっていくと思う。
その歌もどうにか形になり始めると、今朝起きがけに、新しい詞が瞼の後ろ辺りに一段落並んだ:「私が死んだ時」(タイトルは後日考えます)。少し暗~いイメージが描かれるが、さにあらず。最近ずっと読んで来た科学者達の話しと日常の会話の中で話された言葉をまとめてゆく。
今、「宇宙のパワーと自由にアクセスする方法」という、医学者のディーパック・チョプラ氏の本を読んでいる。この本の前に、哲学書として書かれた「生命の実相」を始め、「サムシング・グレート」、「スーパーブレイン」、「人は死なない」など科学者たちが書いた本を読んでいるから、この「宇宙のパワー」をある程度理解できるが、さもなくばおそらくお手上げたの書だったと思う。だが、粒子、原子の視点から人間の肉体と心、そして魂と人格を説いたこの書は、私の人間に対する考え方を宇宙との調和の中で捉え、さらに広がったものにしているように想う。
ぶれない 7/18
日ごと自分が変化して行くのを認識し、うれしい。遅咲きながら色々な事が分かって来た。人のエゴが集まり事がもつれた時、見失ってはいけないことは、仕事や使命を成就させるために何をしなければいけないか、そのすべき処に一点集中する事。対象依存、つまり人に振り回されずに自己完結すること。私はこのブログで、多くの人と共有できる話を含め私に起きた事を私の視点から正直に書いて来たが、それは、実は、いつか私がそれらを越えられると思って来たから。その生長過程を率直に綴る事で、それがやがて誰かの役に立てばいいと思っている。
そして、今、私はもう大丈夫だと深く想う。やっと成りたかった自分、ぶれない自分になったと思う。 自分の夢や使命をなし遂げた人は、例外なくこの”ぶれない”心を持っている。私の中にもようやくそれが腰を据えた。ありがたい、よくここまで来た、来させて頂いたと心から思う。感謝合掌。
夏入り 7/19
今朝瞑想中に蝉の声を聞いた。夏に完全に突入ですね。
ほんの10分とかからないスーパーに買い物に行って帰ってくるだけで、汗。きっとこれまでの夏もそうだったのだけれど、この暑さと汗がとても懐かしい。
昨日は真理の勉強会と懇親会があった日。毎月開催されているが、私は時々気晴らしに行く程度で熱心な参加者ではない。昨日は完全にオタクに成りきって「あじさいの花」の最後を作り上げていると、今夕はいい話をしながら人とご飯を一緒に食べたいと思い懇親会だけに参加した。真理の話は、歌づくりと同レベルで私が最も身を入れているものであり、参加者は積極的に善き人生を歩もうとしている人達なので、それも心地よい。下は30代の女の子から、上は60~70代の男女。「こんな話、他ではできないものね」「言ったら、気が触れたんじゃないかと思われるよ」と笑い合う。幹事役を務めるのは、神棚を製造販売する人。
この会には和服姿の70代(おそらく)の女性がいる。6年前、彼女もいた別の会に初めて参加した時、私は知らない事だらけだったので、講師によく質問をした。その数年後、「最初に来た時、怖かったわ~」と彼女が私の印象を語る。確かに彼女はいつも私を避けていた。男性からも同じ事を言われた。別の会でやはり質問をすると「講師の先生に質問をしてはいけないのよ、恥じをかかせる事になるのよ」と言われ、びっくりした事がある。その講師はまだ若く、その時の私の質問に答えられないでいた。普通なら、答えられない講師は、勉強不足で講師がバッシングを受けるのだと思うが、質問をした私がバッシングを受けた(ちょっと大げさに”バッシング”)。何だ、この世界は!お門違いな世界に足を踏み入れてしまったのか。確かにどこに行ってもこの種の会は、皆ニコニコと”聞いて”終わるだけ。昔の日本がまだ残っているんだぁ~と私の方が少しおびえた。
だが数ヶ月前、意外な事が起きた。今の会で講師の参加者に対する冗談混じりの揶揄を不快に思いながらも皆我慢していたようだったが、その揶揄の矛先が私に向けられた時、私は躊躇なく講師を言葉で平手打ちした、「冗談なら、人を喜ばす冗談をなさい!」。すると、帰り道、突然、この和服婦人は私に近寄り嬉しそうに話しかけてくる、「みんな言えなくて・・・」と。この婦人から進んで話しかけられるなんて初めてのことだった。その私の斬りの内容を聴きながら、斜め前に座っていた幹事は何度も私と視線を合わせ「よくぞ言ってくれた」と言わんばかりの嬉しそうな表情をみせる。突然親しみを何十倍にもしたようだ。私、何か特別な事を言ったの?と少しうろたえた。無礼なのでバシッと斬っただけなのに。昨日の懇親会では、和服婦人が私に冗談も言う。
不思議なものだ。だが、おそらく、ありのままの姿でいる(いられる)私が良かったのか・・・おそらく私は裸の王様にモノ申す子供役を担ったのかもしれない。
上で書いた「宇宙のパワーと自由にアクセスする方法」は、久々にもう一度読みたいと思う本だ。とても深い。こういう本を読んでいる時、なんとも幸せ。私は全てに自然に反応しているようだ。
主人の暴走 7/20
友人から誘われてクラシック音楽を聴きに行った。私はクラシックに詳しくないが(おそらくどんなジャンルの音楽にも詳しくないと思う)、故江本勝が生前長年主催して来た、音楽で世界平和を目指すことを主旨にしたコンサートらしい。
ヴォーカル無しで、楽器だけの演奏というのは、どう聴いていいのか分からず、楽器演奏だけのコンサートには数えるほどしか行った事が無い。行けば大体眠ってしまう。今日も1部はぐっすり休ませて頂いた。お昼を食べた後の涼しいホール。聞こえる音は心地よい(-_-)zzz。1部が終わり休憩時間にコーヒーを飲み席に戻ると横の御年輩の紳士、「よくお休みになられましたか」と私に訊ねる(#^.^#)。2部からは弦楽器だけの演奏となったが、今度は眠らないようにしようと努めた。眼が覚めてきちんと聴いていると、初めて音の競演を楽しんだ気がする(そうか、このように聴くんだ、などと思ったりして)。どちらかと言うと私は視覚的にできているようで、一瞬にして視覚に全て入ってくるジャンルに相性がいいのだろう。絵画、デザイン、舞台での俳優や歌手の動きは結構素早くキャッチするが、長台詞、落語、楽器演奏等、点でなく線をたどるような芸は長い間聴きに行こうとしなかった。これは落語から始まり徐々に破られている。ここ数年前から芝居の長セリフも聴けるようになったようだ。ちょっと嬉しい。
観客席にゲストで、安倍昭恵さんが来てらして壇上で紹介された。故江本勝氏とは親しいビール友達だったらしく、「昭恵頑張れと言われているように思います」と涙しながら氏を偲んでいた。続けて夫の仕事について言及。「主人が憲法改正に向けて動いていますが、『御主人の暴走を止めて下さい』という話など反対意見を随分頂きます。主人は戦争をしようとは思っておりません。日本を独立国家にしようとしております。どうぞご理解ください」と発言。スカートの丈が膝上のミニスカート、大衆アピールを計算したドレスデザイナーがいるのだろうか、とてもよかった。壇上のどの女性よりも身長があり、そしてどの女性のスカートよりも身長比が短い。どこから見ても好感を持てる雰囲気を持っている。
以前にFBでメッセージを送り意見を申し上げ、その返信を頂いた事があるので、終演後彼女に挨拶をしに行った。名乗ると突然表情が大きく変わられ強く握手をされた。
偶然なのか、そうなっていたのか、このコンサートの最後には故江本氏の代理を務める方が「宇宙のパワーとつながって、xx」と私の耳にかなり親しみのある言葉を並べる。そう言う時代に移っているのだろうね。昭和のど真ん中で、誰がこんな事を言っただろう。時代は変わり、人の意識も変化しているようだ。ならば、日本は戦争に突入する事はないと想う。
悲しい歌 7/22
「あじさいの花」が出来上がり、今日インストラクターに聴いてもらった。彼がピアノでメロディーを弾いていると、なんと涙が込み上げて来た。歌いながら涙することはしょっちゅうあるが、メロディーを聴いて泣くのは初めての事。彼も弾き終ると私から顔をそむけ、「うわ~、重い曲ですねぇ」と言う。成功した~!
心が痛むような悲しいメロディーを書きたかった。こう言うメロディーを書きたいなどと考えたのも初めての事。私の歌はどちらかと言うと切なさと明るさが混じったような歌が多いと思う。だが、苦しさと悲しさと愛しさが混じった素直な感情を素直に書いてみたい、メロディーに悲しみを表したい。それを「あじさいの花」に託した。
「こんなに愛されていいですねぇ。女性の愛なんですね。そんな目にあった事が無いので分からないけれど」とインストラクター。愛する者の死を歌った歌は幾つか世に出ている。八代亜紀の「ともしび」は、目の前で死んでいく人を歌にした事もあり、かなり重い。それよりは軽くしたいと思った(その点における成功は分からない)。谷村新司の「帰らざる日々」は、サビを聴く限り、余りに乗りが良いので、これが死をテーマにしているとは気付かない。彼は死と言う重い題材を軽く扱おうと意図的にリズミカルなサビにしたように思う。死んでゆく人が「バイバイバイ 私のあなた」と歌っている。立ち止まって考えると、死んでゆく人は確かに悲しくないのかもしれない。「あじさいの花」は、ちあきなおみが歌った「喝采」と場面が共通している。かつて愛した人の訃報が届けられる。素直な曲にしあがったと思う。
宇宙のパワーとつながると 7/23
こんな歌を書きたいと想うと、そんな歌が生まれる。想う事がとにかく現実になって行く。数日前、次回のライブに友人と一緒に来ると言っていた旧友が、別用で来れないとメールがあった。きっと彼らに代わる別な人達が来るかもしれないと気にしないでおくことにした。すると、その翌日、私のライブにまだ一度も来られた事のない人からメールが入り、音楽好きを誘って来られると言う。こう言う事は今回だけに限った事ではない。瞑想を始めた2007年から宇宙のパワーとつながったようだ。必要なものは全て当たり前のように与えられる。”必要なもの”の定義は、宇宙の調和に貢献するために必要なもの。誰でもそこに至る事ができるが、エゴの働きが強いとこの宇宙の知恵を受信できない。人智であれこれしようとせず、「宇宙に、神にお任せしなさい」と言うが、それは真に真に”真理”のようだ。これは本当にすごい!瞑想や座禅をしていると、そこに至ると多くの本が言うが、私は経験しているので、それが本当だと言える。
ディーパック・チョプラ氏の「宇宙のパワーと自由にアクセスする方法」を2回読みメモを取った。その中から抜粋:
自然に願望が叶う秘訣は、自分の願望に注意を向ける事と宇宙のパワーを妨げないこと。願望の実現を妨げるものは、一生懸命になり過ぎたり努力し過ぎる事。ただ存在して、疑ったり、他人の意見を聞いたり、結果に固執すると流れを妨げる。ただ流れに任せればいい。結果に頑なに執着しなければ、願いは叶う。執着とは、恐れ、心配、疑いが形を変えたもので、これが自然な知性の流れをしめつけてしまう。願望を持つ時は、ただ願望の裏にある意図を認識し、その実現に向けた細々した事は、全て宇宙が手配してくれる事を信頼し、宇宙に委ねればいい。・・・・
執着を手放せば手放すほど、願望はどんどん自然に叶って行く。物事が思い通りに進んでいない時は、もっと大きな絵がある事に気がついていないだけ。
利恵子 7/25
「今朝ふと気がついたの。平泉の中尊寺と厳美に行ったら、そこの旅館に泊まらずに、利恵子のところに戻れば、利恵子の話を沢山聴いて上げられるね。どこか高級レストランで夕食をしながらでもいいし。御馳走するよ」
「え?!・・・・旅館に泊まりたかったんでしょう?私のために計画を変えてくれるの?」
電話口で嗚咽が聞こえる。
「バカね、何を泣いているの。。。。気が防いでいるなら、外に出た方がいいんだけれどね」
「静ちゃん、ありがとう、本当にありがとう」
かなり気が滅入っているらしい。ここ数年何度と電話がかかって来ていた。利恵子は私の長姉の次女。商売の仕方も分からず、10年ほど前になるのだろうか、突然エステの店を仙台の泉市に出した。繁盛しているとは決して言えないようだ。そこに東北大震災。倹約して買ったマンションにはひびが入り、電気もガスも水もでない。戸棚の中のものが全て放り出され、家中にガラスや陶器の割れた破片が散らかったという。独身の彼女は呆然と立ち尽くし、やがて泣きながら全て自分一人で処理をした。事業経営のノーハウも分からずに作った料金システムで、店も成り立たなくなり、いよいよ沼底へ落されて行く生活になったらしい。
私の経験からも言えるが、前方が見えないほど闇の中に入った時は、大きな光が見えてくる前触れなのだが、渦中にいる時はそんな事は考えられない。そんな中で、私が彼女の拠りどころとなったようだ。拠りどころと言ってもアドバイスをするだけだが、複雑な気持ちだった。荷物は背負わないよと言う気持ちもあれば、一度も叔母として何かして上げたことがないので、そんな機会を与えられたのかも知れないと言う想い。
平泉の中尊寺は、作家の瀬戸内寂聴が得度したところ。それもあったが、数十年前に4兄の家族が楽しそうに映っていた厳美で撮った写真が今回そこを訪れる決め手になった。棒で何かを叩くと、お皿に並べられたお団子がロープウェイで運ばれてくる。芭蕉が松島と並べて感嘆したとか。利恵子の処で一泊した翌日早々にそちらに行き、その日は以前から使いたいと思っていた中尊寺近辺の最も上質な旅館に泊まろうと、彼女を誘ったが、そのような気分ではないと言う。「ならば、利恵子の話を聴く時間はないよ」「静ちゃんに逢えるだけでもいい、逢ってハグしたい。それだけでいい」と、こちらの心が細ってしまうような事を言う。
だが、思いついたのが、上の案。旅館に関しては、また別な所でいい宿に泊まる事もあるし、私と話をしたいと言う彼女の想いを実現させる事にした。思いついた事が嬉しかったが、同時に前夫の事を思った。彼は、何事にも執着せず常に柔軟に考える事ができる人だった。他人をも含めて関係者全員がハッピーになる方法を常に選んだ。相手を喜ばすことが好きで、喜んでくれた事で満足する。精神レベル向上の階段を上ってくる過程で私は幾度と彼を思い出した。あの当時、彼は既に此処まで来ていたんだと。今の自分を超えなければ今の自分が分からないと言うが、相手のレベルのたとえ入口あたりであっても、そこまで行くと初めて相手の広大さが分かるとも言える。神様のような人だったなぁと。ひとり立ちしなさいと言う別れだったのだろう。ひとり立ちした今、以前より充足感を感じる。そして独り立ちできるようになった今、代わって私が誰かの救いになりなさいとこの機会が与えられたのかもしれない。
死に顔は他人に見せるな 7/28
「故人の意志により香典はお受け取りしておりません」
「献花の後は直接ご会食会場にお進みください。会場は、2階と3階にございます。御親族の方は3階にお進みください」
用意された食事は、まるで一流ホテルのビュッフェのようだった。食べきれずに山と残される。そして帰りには、会葬礼品が参列者全員に配られた。
四兄とのお別れ会が49日の法要と重ねて本日行われた。その壮大さに、10年以上も交流がほとんど無かった私は「なぜこんなに?」と思いながら、親族の席に着いた。ばらばらになってしまった兄の旧家族の親族席はさびしい。兄の妻の家族は、それぞれの配偶者、子供たちと孫達が全員東京から来て参列し、義姉の弟は実兄を亡くしたかのように私の前で泣く。最後に読まれた小学5年生の兄の初孫の弔辞に心が痛む:病院のベッドで寝ているおじいちゃんの顔はまるで笑っているかのようでした。おじいちゃん起きてよ、ね、起きてよと言っても返事が無いので、おじいちゃんは本当に死んでしまったのだと思ったら、僕はうわ~っと大きな声で泣きました。僕が生まれた時が、生きて一番嬉しい事だったと言っていました。色々な事をして遊んでくれたけれど、厳しいおじいちゃんでした。「長男が弟たちをしっかり見なければいけない」といつも言っていました。。。。長男意識が強いのか、4人兄弟全員男のなかでも凛々しそうに見える。横から突き出たロバのような耳、小学五年生とは考えられない落ち着きを備えていた。ヴァイオリンを弾いているそうだ。
「来生でまた克夫兄さんと一緒になりたい?」と訊ねる私に、義姉は頭を上下に動かした。「克夫さんは怒りっぽくて嫌だなと思った事もあるけれど、どこに行くのもいつも私を連れて行ったの。いつも一緒だったの。行きたくないと思っても一緒に行こうと言われ、行くとそれなりに面白かった。これから私は一人になってしまうので、淋しい、悲しい」と言ってハンケチで眼を押さえる。「仕事に情熱を持っていて、ここまで大きくし、厳しかったけれど、心は本当に優しい人だった。克夫さんは以前から俺が死んだら家族葬にしろと常々言っていたの。大きな仕事をしていたから自分の死に顔を他人に見せたくなかったのだろうと思うの。だから静ちゃんを始めみんなに知らせなかったの。私たちは克夫さんが言った通りにしたの。。。。」「もう死ぬと言う予感があったのかなぁ、無くなる数週間前、突然、『お前にも嫌な目に合わせた事が沢山あるなぁ』と言ったの」そう言いながら、義姉がボロボロ泣く。死後何も問題が起きないよう、自分が死んだ後の事業をどのように運営していくか全て伝えてあったと言う。そして家族は「長男がしっかりしないと兄弟はばらばらになる」と、いつも自身の息子と息子の長男に厳しく言い聞かせていたらしい。
自分の旧家族に起きた事、それがもたらした寂しさと痛みを自分の家族に再現させまいとした四兄の教えなのだろう。兄や姉、そして妹たちに対する自分の憧れの姿が悉く壊された四兄の無念さがその言葉の中に聞こえる。本当に情の深い兄貴だった。
自分の兄をその妻が慕ってくれる事が、嬉しい。遺影に映る大きな鷲鼻が懐かしい。笑うような表情をしていたと言う。誰が迎えに来たのだろう。「かつお!」「よう、えいぼ(永坊)!」と、三兄との再会を喜んだのかもしれない。三兄は四兄とよく一緒に遊んだのだろう、「克夫は女にもてるんだ」と言っていた。三兄が言うくらいだから本当だろう。若い時小林明に似ていると言われていた事がある。四兄の温かさ、男ぶり、もてるのは当たり前かもしれない。72才、闘病の苦しみもなく忽然と、そして颯爽と逝った。合掌
追記 7月29日
四兄の家族、次姉の家族との再会は喜びである。特に子供のころに一時一緒に過ごした事のある姪や甥たちとの再会は、当時を思い出し懐かしい。そして次姉にとっては、四兄の子供たちに対する私の想いが彼女の子供たち(特に長男)にも劣ることなく表わされる時、喜びに包まれるようだ。甥や姪が子供の頃から、私の事は親族の誇りとしてそれぞれの家族で語り続けられているらしい。
私の父が築いた家族は、多くの人の入れ替わりと共に、四兄の憧れを破壊し、それは四兄の新家族の中で実現されようと受け継がれていくようだ。古いものが去り新しいものに入れ替わる。。。。致し方ない淋しさがある。それが理由か、このブログを昨日書きだした直後から、四兄の心中を想い、涙が目蓋に収めきれずにいる。亡くなった後に故人がどのような人間であったかその人生を俯瞰して気付く事がある。四兄は、本当に与える人、愛を与える人だった。家族の絆を大事にし、そして家族に尽くす人だった。
濃い三日間 7/30
栃木県小山市から時々私のライブに来て下さる方がいる。家は農家でリンドウやコスモスを栽培し、ライブに来る時は何らかの花を持って来て下さる。時には精いっぱいアレンジした花を花かごにギューギュー詰めて届けてくれたり。私のライブでいつも撮影をして下さる先輩がその方と一度隣り合わせに座った事が御縁で、小山の花火大会を撮影したいと先輩が行く事になったのだが、色々な展開で私まで参加するようになった。結局あの人この人と誘っている内、10人程が7月26日に一緒に小山で花火を観る事になった。
花火大会参加が決まった後に、四兄のお別れ会の連絡が入った。ならば26日の小山の花火大会を皮切りに、滅入っている仙台の姪のところに行き、27日は平泉中尊寺、そして28日に仙台に戻りお別れ会に参加する旅程を立てた。。。。。。。大変濃い3日間だった。泣いて抱きついてくるほど滅入っていた姪も、Westinホテル最上階の京料理の個室で懐石を食べたら、「こう言うところが私に一番似合っているの」などと言いだして、すっかり元気が出たようだ。席に着くや気取った表情さえ浮かべる。会計伝票に並べられた数字に責任が無いヤツ、その数字にこっちは今回だけよと誓う。それにしても、始めて訪ねた姪の部屋、彼女が選んだと言うインテリアや壁紙の趣味の良さには驚いた。また整理整頓の達人である。
平泉中尊寺、ま、行ってみようと思っていたところに行けた事はよかった。瀬戸内寂聴がここで得度しながら、今は京都の嵯峨野にいる事に同感。私も京都に行くだろう。やはり平泉は、蝦夷の国。土地と人間にも相性がある。中尊寺を一回りした後は、厳美に行く事にしていたが、どうも私の脳のどこかで、厳美より「げいび峡」での舟下りを勧めている。で、現地で観光客から情報をもらい、旅程を変更、げいび峡に行く事にした。正解だった。1時間30分ほど川風に涼をもらいながら船頭の説明や面白くもないジョークを聞き川をゆっくり滑る。帰りには、船頭お得意の民謡を披露してくれる。なかなかいい声で、みやびな時間となった。
24年ほど前、イタリアのヴェニスでゴンドラに乗った時、船頭とは別にカンツォーネの歌手が一緒に乗船し歌ってくれた。夜のゴンドラ、カンツォーネの歌声が川沿いの家々の壁に跳ねかえり、響き渡る。その雰囲気はとてもロマンティックで、ゴンドラに揺られているカップルは肩を寄せ合い互いの唇を重ねる。これにに対し、げいび峡の舟下りは子供やおばあちゃん、おじいちゃん共々40人から60人を乗せて昼に出る。そして船頭が「歌っこさ歌ってける」。
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土手や川沿いの階段に座ってみたり |
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大輪の花も良いが、小紋のような小さな花が
一斉に開く花火に心が動かされる。 |
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中尊寺にある能楽堂。太古の昔から存在している
ような雰囲気がある。8月には薪能があり、
喜多流の能と野村万才万作親子の狂言も
あるらしい |
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げいび峡の最も美しい眺めかもしれない
右が男の顔、左が女の横顔だとか |
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歌う船頭 |
男のエステ 7/31
タレントのビートたけしがベッドに寝かされてエステを受けている。そんな感じだ。
姪のエステ経営が繁盛せず救いを求めたのか、四兄は彼女の客になったと言う。彼がエステを受けている姿を想像すると、なんともおかしい。心の中で戸惑いながら、それでも少しでも姪の営業利益の足しになるよう、言われるがままにベッドに仰向けになったのだろう。自分の代わり義姉を行かせた事もあるらしい。
四兄はビートたけしが気に入っていた。テレから来る言葉の荒さ、心の温かさが似ている。似ていながら品を失っていない、そんなところが好きだったのだろう。四兄のすごいところは、姉、妹、姪や甥を様々な形で援助していても、決してそれを口にしたり、恩を着せた事がない。全て兄姉が反面教師になっていたのだろうと思う。末っ子と言うのは、上の者から本当によく学ぶ(^v^)。
雄々しい男のエステ通いは、その子供たちや私を含め、皆を驚かせ、笑わせた。
寅さんだった 8/2
このブログで突然メンツを無くした長兄。とうに逝ってしまっているが、私とは親子ほどの年齢差があった。長兄の妻は、現在私が家族の中で最も交流している義姉。今は大分縮んでしまったが、義姉の時代には珍しい身長169センチほどで、足の長い美人だった。子供の頃「美智子様に似ている」と言って、私は義姉を自慢に思っていた事がある。義姉が我が家に来てくれた事が嬉しかったような想いがあったと思う。明るい人だ。父が生きていた頃、名前を呼ぶと打てば響くように返ってくる彼女の「はい!」を父は大変気に入っていた。その義姉が四兄の死を私に知らせてくれたのだが、昨日お礼を交えて電話をすると。。。
「長男がしっかりしていないと、兄弟がばらばらになってしまうと言われていたけれど・・お義姉さん、会場に初めからいた?」
「いたよ。本当だ、あの人は全然しっかりしていなかった」
「私は、可愛がってもらった記憶しかないのであまり分からないけれど、お酒を飲んだ時の元明兄さんは寅さんのようだったね」
「(笑)ホント、あの人は寅さんだった」
「表情が、映画で見る寅さんにそっくりなのよね」
寅さんを演じた渥美清自身は大変まじめな人で、人の根っこを鋭く見定める人だったらしいが、私の長兄は渥美清が演じる寅さんだった。根が本当に明るく、いつも夢見ている人。だから話すことが本当なのかホラなのか分からない(あははは・・)。お酒を飲んで良い気分になると、まるで猿のような動作をし(●^o^●)、ひょっとこを踊ったりした。私はその踊りをみるのが好きで、「ひょっとこやって!」と長兄に請い長兄は応じてくれた。100%内向的でないから深く物事を考える事は無かったと思う。飲むと景気良い話ばかり。彼の素面の言葉も眉に唾しながら周りは聞いていたと思う。
現実的で、最悪の場合を勘定に入れて着実に事を展開していく四兄はこれが嫌いだったのだろう、いつも長兄の”夢”に水を差していたような記憶がある。父が亡くなった時、長男で可愛がられていたからだろうか、長兄は涙を爆流させ、父の棺をずっと抱いていたり、連夜その横で寝ていた。「男がみっともないからよ、止めてくれよ」と言ったのは四兄だった。父をひとり占めしているような長兄の態度が気に入らなかったのか、四兄は父の死に人に見える涙を流さなかった。
寅さんのような夫を背負い、義姉もそれはそれは大変だったようだ。「ああ、結婚はもうたくさん!」と言っていた事がある。肩を持つのは唯一私だけか、私は長兄のユーモアが好きだった。
「皆御縁があって、たまたま兄妹になったのだものね。」
「本当だねぇ~。」
「でも、私たちの家族は、四男、四女の末っ子が一番しっかりしているみたいね。上が反面教師になっているのね」
「ホントウだ!」そう言って、義姉は笑いながら「末っ子!」と電話の向こうで私を呼ぶ(あは)。
率直に言うと 8/2
やはり恐れていた通りの夏。来るものは来るから恐れても仕方のないことだが、昨日午後1時頃に通りを歩くと、熱された地面からたゆたう陽炎。その熱の中、代々木競技場で行われた
a nation islandというイベントに同じくシンガーソングライターの友人と行った。JPOPの様々なアーティスト(10代から30代)が舞台で歌ったり踊ったりする訳だが、名前リストをみると、聞いた事のある名前が出演者20グループ以上の中でひとつふたつある。その聞いた事のあるグループを含め若い彼らがどんな歌を歌い、どのようなのか、せっかくの音楽学校からの無料招待、覗きに行った。友人の話では豪華メンバーだと言う。
イベントだとこうなるのだろうか、何を歌っているのかさっぱり分からない。大きく映し出され画面には歌詞のテロップも流れない。バカでかいサウンドに彼らの声はサウンドの一つとして聞こえるが言葉は完全に消される。唯一ピアノだけをバックに歌ったDeepのバラードだけが言葉を届ける。おそらく、聴かせられるほどの歌唱力を持つのは、元EXILEメンバーで結成されたDeepだけなのかもしれない。他は歌などどうでもいいようだ。また、一人3曲ほどしか歌わないのだが、クチパクもある。
名プロデューサーが言っていた、「歌はうまくなくていいんです。素人っぽさがあった方が良いんです。重要なのはその人個人の魅力なんです。」そう言う事なのだろうね。凡そ5時間に亘るこのイベント、率直に言うと、何が良くてお金を払ってまで来るのだろうと思う。こういうものを本当にいいと思える人達がこんなに集まっている状態に戸惑う。いや、待て、やはりチケットが大分残ったので「必ず行く」が条件に無料で渡って来たという事は。。。だよね、きっと。
白痴になったような気分で2時間も席に座っていると、もう耐えられなくなった。このイベントを楽しみ帰りに一緒に食事をしたいという友人の希望に応えようと、何度も会場を出て外で休んだりしていたが、とうとうひとり帰路に着いた。人の楽しみは千差万別だが・・・
いよいよ 8/3
2015年のラストライブ、いよいよ明日。小さなライブなのだけれど、当日が近づくと、あ~もっと後ろに移動できないかなぁと思ったりする。きっと永遠にそう思うのだろうね。
今日、このHPのアクセスがドンと上がったので、何の前触れかなとこちらもドキドキする。うれしい事が起きますように!
皆様のおいでを浮き浮きドキドキしながらお待ちしておりま~す。(^_-)-☆しずこ
ふ~ 8/5
「ふ~」、ライブ終了後、久々にこんな気持ちになった。
多くの方々に来て頂いて2015年のラストライブは"盛況"の内に終える事ができました。ここに心からお礼を申し上げます。
人のエネルギーが放出する量はすごいのだと思う。いつもと変わらないライブなのに、人が多いというだけで、そのエネルギーを受けて返すこちらのエネルギーは枯渇してゆくようだ。多い事が習慣だとまた違ってくるのだろうが。
面白いアドバイスを頂いた。「あなた一人でしゃべっていないで、こちらにも喋らせなさい。」ライブをする人達が聴けば、一瞬びっくりすると思う。ライブと言うのはとにかく自分が一人でしゃべりお客様はそれを聴くと云うのが一般的である。だが、小さなライブハウスなので、お客様との言葉の交流はあって自然だし、確かに時々そんな風景をみる事もある。そんな会場にいると、仲間内ならいいが、第三者で初めて行く場合は、黙って歌を聞きたいだけだから白ける時もある。それもきっとやり方次第なのだろう。私にそれができるかどうか分からないが、目指したいところでもある。「ここは練習の場なのだから」とアドバイスは続いた。
新曲が7つあったが、やはり、演奏の細かいところを全て書いた楽譜でなければ、譜面や音源を先に渡して事前確認をしてもらっても、演奏は難しいのだろうなぁと思った。特に「いいね」はもっと軽やかに弾まなければならなかった。やはり前回のライブのようなノリが無いので、反応も今一だったように思う。
下のようなコメントを頂いた。
ーご本人が、歌われるのが一番かもしれませんが、ほかのすばらしい歌い手によって作品のすばらしさがもっと広がってくれればと願っています。ー
皆様、再度ありがとうございました。これからは創作の世界にとっぷり浸かるつもりです。
ワクワクする人 8/9
孫正義、ソフトバンク社長。
遠い昔私の最も近くにいた人が「僕は孫さんを尊敬しているんだ」とソフトバンクの株を買った。まだ店頭株であった。当時のソフトバンクの事業内容が何だったか記憶にないが、間もなくヴォーダフォンを当時破格と言われた値段で買収し、氏が夢見ていた通信業に参入。通信業は、通訳をしていた時によくお手伝いをさせて頂いた業種。ヴォーダフォンの事はよく聞いていた。日本の運輸省は高電波域をNTTドコモなどの最大手企業に配分し、新規参入者を差別していたらしい。日本に赴任してきたヴォーダフォンの雇われ社長たちは、勝負は始まる前から決まっているような日本市場で、営業利益だけを残そうと設備投資を抑え基地局を増やすことをせず、在任中の数字の悪化を避ける事に注力し次の赴任先へと移って行ったとか。日本の通信業界はドコモが一人勝ちしていた。
そんな通信業界に膨大な借金をして参入した孫さん。ほとんどの人が無謀だと考えた。他社の株主総会に通訳者として出ていた事もある私は、ソフトバンクの総会がどんなものか覗きに行ったことがある。東京フォーラムの広い会場はほとんど埋め尽くされていた。孫さんが壇上に現れると、会場から拍手が湧き、氏は手を挙げ笑顔で応える。スターだった。私が知る限り、株主総会で社長の登場に会場から拍手があったのは初めて。質疑応答時は、会場の真ん中前よりにセットされたマイクまで質疑者は歩いて行く。ほとんど皆が嬉しやありがたやの色を声に滲ませる。たしかITバブルが下火になりかけていた頃だったか、新規上場する会社の株価には依然として法外な公募価格が付けられ、数日後どんどん右肩下がりになって行った日本オラクルのようなところでは、株主の憤りはものすごく、雇われ社長はたじたじ、株主総会をいかに滞りなく乗り切るか、至難の技だった。日本人もこんなに発言するようになったのかと、以外な体験をした時だった。
その会場で孫さんは「通信で、日本第2位になりたい」と抱負を語った。その後10年も経たぬ間に、ソフトバンクの営業利益はドコモを抜き第一位までに昇りつめた。そして、日本国内で市場の取り合いをしていても限界があると、次は米国のスプリントをまたまた膨大な金額で買収。潤沢なキャッシュフローと、創業者自らが社長である事が無謀だと言われる戦いに挑める理由なのだろう。勢いに乗り、今度は米国のTモバイルを買収して、AT&T、ヴェライゾンと共に米国市場で三国志の覇権争いを試みたが、その買収のもくろみは現在の競争バランスが良いとする米国当局から認可されなかった。ターゲットが世界視野に入った孫さんとしては、スプリントだけでは勝てないと、一時スプリントを売却しようとさえ考えたらしい。そのニュースが、今期決算発表記者会見で語られていた。全容はネットで流されている。
その記者会見で、ソフトバンクが国内1位までに昇りつめた時の経験を生かし、スプリント一本だけでも立て直しができると言う自信を持ったと言う。「私が今まで言った事で実現しなかった事はありません。」この言葉に松下幸之助の言葉を思い出す、「失敗した事はありません。成功するまでやるからです。」そしてまた、Tモバイル買収のはずれは、「3回に一回はうまくいかない方が良い」というやはり松下幸之助の経験論が浮かぶ。ソフトバンクの潜在能力に照らし、今の株価は低すぎると自社株買いを宣言。翌日には株価が上昇。
孫さんの根底の考えは「人のためになる事をしたい」。電話線を引き込むために権利金としてかつては7万円を支払って来た私たち。私が初めて米国に留学した時の電話加入料は工事費も入れて僅か20ドルだった。日本の仕組みの怪しさは違いをみた時に分かる。物価がどの国よりも高いと言われる日本だが(デフレ時代は別として)、通信費の安さは世界一らしい。きっかけは誰が作ったか。ヤフーのインターネット回線を3千円台にすると、その倍の価格設定をしようとしていた他社は追随するしかない。携帯電話の基本使用料の安さもソフトバンクが発端であった。そしてソフトバンクに負けじとドコモが定額かけ放題に踏み切り、上限1万5千円程だったろうか、かけ放題の通話料も2千円台に入った。上で書い不平等な電波域の割り当てに、通信業界の関係者が集まった運輸省との会議でモノ申したのも孫さん。不平等な商慣習に甘んじていた会場の出席者は皆、彼の発言に拍手をしたと言う。氏は通信業界で真の自由競争ができる突破口を作った。
ソフトバンクの行動力の速さもすごい。2006年にヴォーダフォンを買収した後の事。多くの人が湯治に行く秋田の山間にある玉川温泉から携帯が通じるのは当時auだけだった。私はネットから顧客の声として、ひとり湯治をする人は家族と頻繁に連絡を取りたいはずだからこの山奥に電波が届くようにして欲しいとコメントした。翌年再訪した時、それは既に実施され、奥様の癌治療の手助けに来ていた通信会社の社員を驚かせていた。
会社は物も作るが、それ以上に人を作る場所だと言ったのは松下幸之助。通訳の同僚が顧客と一緒にソフトバンクを訪れた時、社内の雰囲気の良さが強く印象に残ったと言う。ヴォーダフォンの電波が悪く、当時最も電波状態が良いとされていたauに切り替えようかと考えていた彼女は、この社内雰囲気の良さに乗り換えを迷っていた。つながらない携帯の異名をもつヴォーダフォンを引き継いだソフトバンクは「NO1のネットワーク構築」を目標に走り続け、今では最もつながりやすい携帯電話になったとか。
60代で社長席を後任に譲り、「100年続く企業にしたい」と言う。養豚のえさを積んだ祖母が引っ張るりやかに乗せられていた幼児が、一代で大企業の社長になり、2014年には日本の富豪第一位になったジャパン・ドリームは米国に留学し翻訳電子辞書を作ったところから始まった。昨日行った大手家電量販店ではソフトバンクカウンターに多くの人達が並ぶ。販売スタッフも「一番多いんですよ~」とほくそ笑む。カウンターの近くには、ソフトバンクが作った感情認識ロボットPepper君が来る人たちを喜ばす。このロボットは実験的に1千台を製造したが、発売後1分間で売れ切れたそうな。
多くの若者の夢がこの人に集約されている。今度は何をしてくれるのだろう。私はワクワクして傍観している。
パソコンの買い替え 8/10
家でレコーディングする事のメリットが大きい。いつでも時間の制約がなく、納得するものができるまでしぶとく粘れるかもしれないと、とうとうパソコンを買い替える事にした。あちらこちらでMACが薦められる。WINDOWSとは使い勝手が違うので慣れるまで大変だが、一旦分かると後は大変使いやすいとか。本体もソフトもアップルで作るので、WINDOWSのように頻繁な更新が無く安定している。外見も本当に美しい。ラインがきれい。で、家まで運んで来て、さっそく、WINDOWSのデータをMACに移す作業を始めた。これまでのOFFICE、メール、家計簿、譜面ソフトが使えなくなるので、ソフトを新しく購入するための追加支出もやむを得ないと覚悟していた。
が、想像していた問題はもっと大きかった。メールアドレスが移行できない。ネットでやり方が書いてあったりするのだが、そこで選ばれている選択肢が私の2007年版OUTLOOKにはないらしく、移行できない。プロバイダーが遠隔サポートをしてくれるのだが、長々と時間がかかり難しそう。WINDOWS7に移行した時手続き違いでアドレスを全て打ち直した辛労をありありと覚えているのでので、ギョッとする。加えて、私のこのHPのソフト、ホームページビルダーはMACに対応していない。ええっ?ホームページを一から作るの?とんでもない、少なくとも今は。
家電量販店に事情を説明すると引き取ってくれた(ネットで買わなくて良かったぁ~!)。代わりに、MAC以上にパワーのある東芝のDYNABOOKを購入。明日運ばれてくる。きっと半日以上がパソコンの設定に費やされるだろう。そして始めてレコーディングを試す。そわそわ~~~
頑張っています 8/12
部屋ごと丸々引っ越した時の疲労感に似ている。システムを一つ取り替えるというのは大変なことなのだ。丸二日間新しいPCへの移行に奮闘している。
印象としてはやはりMacがいいようだ。外見の美しさだけでなく、ゴミのような宣伝がない。私が購入したのは東芝のD17だが、立ち上げと共にあちらこちらの宣伝画面が怒涛のようにスクリーンに映される。そしてキーボード上の重要ボタン、Deleteやバックスペースがセンターから指を伸ばして届かないところにある。何年パソコンを作っていてこうなのだろうと思ってしまう。もしかすると、キーボードデザインにも特許権というものがあり、使いやすい米国メーカのようなボタン配置ができないのだろうか。それに、更新の数に圧倒される。マイクロソフト社のものだけでなく、東芝からの更新通知もある。家電量販店のスタッフの話だと、MACはすべて自社製品なので、更新が少なく安定しているという。
心配していたメールアドレスや譜面の移行はスムースにできたが、ホームページビルダーのファイルが壊れ、掲載した写真が皆消えたりとため息つくことばかり多かりき、だったが、ソフトを何度と入れなおしていると、どうにか落ち着いたようだ。そうか、こんな風に辛抱強くやるんだぁ、とまた一つ忍耐力が増して行くようだ(だといいが)。
それにしてもソフトやハードのサポートスタッフの忍耐には頭が下がる。電話で長々とマニュアル通りのしゃべり方をされるとイライラしてくる私だが、彼らも大変なんだと考えたら協力姿勢になった。やっぱりITだと思う、最近の若者を別人種にしたのは。忍耐強くならざるを得ないわ。感謝です。
敬服 8/16
朝の空気にさわやかさが混じり始めましたね。先行こうとする夏に「もう少し待ってよ」と普段なら名残惜しく思うのだが、今回の夏には惜しげもない。この夏もどこかを回っていろいろなものを拾いまたは捨てて、再びやってくるのだろう。
ここ1週間ほどの間にパソコンの買い替えやレコーディングシステムの構築で、多くの方々の丁寧なサポートを受けそれらに敬服するとともに不思議な気持ちにもなっている。
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