4月 近づいてきているような気がする。いよいよ来るのだと。
2015年9月、「希望の足どり」という楽曲を書いた。これは夢を追いかける人が、その実現を今か今かと待つ心模様を歌った: 「近づくわ、近づくわ、走っておいで!」 かつて「その出会いが良いなら、宇宙がそれを祝福する」という言葉を読んだ事がある。周りに、自然の中にその祝福が感じられると言う訳だ。アレンジャーのAnzとのコラボが再開した時もそうだった。翌日、何年も連絡を取っていない私の応援者からのメールがあった。そして今回も、逢うべき人とつながった後、なんとなくパチンコがしたくなって3千円を使ったら、Wow!。笑うかもしれないが、私にはわかる。逆に、別れなければならない人とは、その逆が起きる。 あちらこちらの”読める”人達が「今年は良い事がある」と伝えてくる。そう、これまで私は楽曲を聴いてもらう相手を間違えていたようだ。というか、様々なジャンルの楽曲ができるから、自分でもどこに行ったらいいのか確信が持てなかったのだと思う。でも、その考えも違うのかも知れない。新しい時代の始まりを待たなければならなかったのかも知れない。 やっと見つけたが、実は昨年の夏ごろにその人宛の名前を書いた封筒を準備していながら、想いが究極になるまで待つ事にしていた。この人から別な人を介して連絡があって以来、私の中で燃えるものがあり、昨年暮れの30日からこの正月3日までの5日間に4曲が生まれた。「化粧」「夢ありなし」「コムディー」、そして改作した「生きた証」。 アニミズム 1/7 上で言っている「宇宙が祝福する」と書いたところは、いわゆるアニミズム、汎神論。「西行花伝」の中で西行法師が中国の僧に同じような事を言っている。答えを求めても見つからない時、周りの草木や自然が語る事があると。「やさしさに包まれたなら」の中でユーミンも神様からのメッセージが色々な事象を通して贈られると歌っている。このブログで私がよく「神」と書くのはまさにそれ!歌を書くようになって以来、それ以前より多くの啓示を受ける。それで今は神が存在すると心から納得している。私達が自分の意志でやっていると思っている事も、実は神がその意思を人に持たせている。驚くような巡り会わせも、神の采配。まさに、シェークスピアの「真夏の夜の夢」の物語だ。シェークスピアも神を信じていただろう。神の智慧無くして、あれほど面白いものをいくつも短時間に書けるわけがない。 だから人の想いが神がその人に与えた想いと一致するなら、素直に生きていれば、必ずその想いを遂げられる。というのはその想い自体が神の想いだからだ。しかしエゴで固まって、「否」と神の意志に対峙し、神と不調和(つまり人とも不調和)な想いは、遂げられない。一時遂げられたように見えても、直ぐに瓦解する。人は他の生物同様この自然界の構成員である。他の生き物は皆”素直”に生きている。あるがままを受け入れ、自分の運命を生き尽くしている。素直に生きる事が自然の営みなのだ。人も例外ではない。素直さが欠けると、周りを見ても、絶対何事もうまく行かない。また素直な静かな心がない限り、自然が語る答えも聞こえない。 松下幸之助氏は、「気が付いたらこんなに大きくなっていた」と自分の事業についてコメントしているが、氏には自分の仕事を大きくしようと言う夢などなかった。ただ素直に人の話を聴き、聴いた事を素直に行動に移してきた。それがために周りはより多くのアドバイスを氏に与える。才能があった訳でも、知能が高かったわけでもない。「私が他と何が違うか考えますと、私は素直でした」。これが氏の成功の鍵だった。だが幸之助氏の場合は、素直さは天性。多くの人は努力して素直に生きられる。 余談だが、宮崎駿の作品は彼のアニミズム信仰をベースにしているらしい。今読んでいる彼の話から知った。 心技体 1/23 ふ~~~~。錦織圭の全豪オープン4回戦と準々決勝を観ながら、自分のメンタルを超えるのは本当に難しいとしみじみ思った。圭は、彼自身にもなぜだか分からない、自分を破壊してしまうような負の力が働いているように思う。4回戦の相手は圭が優に超えられる選手だった。その試合の1セット目、圭自身も6‐2か6‐3で勝てたと後から言うが、実際は6‐7で負けた。最終的には5時間強のフルセットを戦い際どい勝ち方をしたが、その身体的疲れとメンタルの疲れが出て、準々決勝では、相手がジョコビッチだった事もあり、途中棄権。 信じられない勝ちを得た後に彼が常に陥る”穴”。これを救うのは自分しかいないのだが。。。。なぜだか分からないけれど、自分をマイナス方向に持って行ってしまう負の力。私にもかつてこれがあった。負の結果に自分を誘導してしまう。今はほとんど完全に克服した(と思う)が、その方法を彼に教えたい。瞑想。瞑想は、自分の無意識部分を浄化する手伝いをしてくれる。そして、エゴを超越し魂の場所に心を座らせる。 なぞ 1/23 104曲目のタイトルは「なぞ」(^。^)y-.。o○。 人の命の終わりや人と人の関係の終わりを、その人達が愛でていた”物”が告げる。目に見えない心霊的な話は断固信じないと言い張った一人のデンマーク人男性が、彼の叔父が亡くなった時、叔父が持っていた時計が全て止まったと言った。本当に不思議だと。こんな話もある。結婚して初めて迎えた夫の誕生日に大枚はたいて妻が夫に贈った時計が、16年後離別と同時に止まってしまったと。 物が未来を告げる。上のアニミズムの世界だろう。物が語る事もある。 そんな事を歌にした。本当に不思議だ。でも、事実起きている。 一幅の絵 1/26 近藤先生にみて頂くものが無くなったので、ミュージックスクールを退会するか、またはギターレッスンでも取ろうかと考えたが、習い事をする熱意はない。で、退会を選択しようとしたが、どうも近藤先生が名残惜しそうだ。確かにずいぶん長いこと色々話しながら来たもの。話と言っても主に歌詞の内容について語った事が多かったが、互いに心置きない友人になった感がある。 とりあえず今月残っているクラス(つまり今日)の材料を用意しようと、メロディー貯蔵庫から適当に選び出し記譜を済ませ、そのメロディーを何度も口ずさんでいると、歌詞が生まれた。ちょうど、文芸批評家の小林秀雄の対談集を読んでいたら作品の視覚的な要素の重要性を説いていたので、それに倣って書いた。昨年正月2日に見た河川敷ゴルフ場での景色。しかし見たものや聞いたものを並べたが、はて、この歌詞は何を言いたいのか、どこに行こうとしているのか、作家の私が分からない。が、とにかく書き進んだ。すると、 あらららら、きゃ、きゃ、まとまったじゃな~い!まさかの歌詞の展開に嬉々とする。一幅の絵のような光景。それは命の賛歌。ぎゃは~、良いじゃないすか!!!こんな歌ないっすよ!なぜ私はあの時あの風景に感動したのか、その答えが私の方に歩いてきたのである。 この楽曲の出来上がりに気をよくしたので、「よっしゃ!」と近藤先生のクラスを続けて受ける事にした。授業があれば、こんな具合に自分で自分の背中を押して(見えないもう一つの手があるんじゃ)、どんどん楽曲を書けるかもしれない。それにこれからはもっと積極的にライブをしに遠方にも行こうと思うので、その際の伴奏のお手伝いを先生に打診したら、彼女の授業がない日ならOKと了承された。その際の音合わせも授業時間を使ってできるだろう。 で、出来た歌のタイトルは「一幅の絵」。 小林秀雄 1/30 もう1月も終わり。年を取ると時の流れが速く感じられると言うが、時の流れ自体が速くなっているのではないだろうか。なぜこう言うか、説明するとかなり長くなる理由があるが、ここでは省こう。 さて、上で述べた小林秀雄の対談集を読んで、この人の人間味がとても感じられた。私は彼の感性と知性と人柄が大変好きになった。大変率直で事やモノの本質を射抜く。そして温かい人間性。私と心の琴線が似ているように思う。最初はたじたじだろうが、言葉の運びが拙くても本意や根底をしっかり受け止められて会話が進むように思う。学生時代に彼の批評を読んだとしてもついて行けなかっただろう。当たり前だ。人生経験の浅い者が人生経験の深い者の話を理解できる訳がない。だが、今なら語られる。そんな気がする。 ものの見方が、大それた事だが言ってしまうと、私と似ている。なぜ似ているのか、対談集を読み進んでいったところに答えがあった。彼は、宗教心は人間の中に既にあるものだと言う。ここのところで私はドキッとした。なぜ彼はそう思うのかさらに読み進んでいくと、彼の母親は天理教の信者であったらしいが、晩年になり病気になると大本教から分派した世界救世教に移り、医者も薬も軽んじ「お光様」(大本教の教祖)だけを信じた。それで彼も一緒に入信したらしい(母親の死後、脱退したらしいが)。その時の経験から、「インテリの好きな、迷信だと言う言葉は内容を欠いた空虚なものだ」と言う。大本教には谷口雅春氏を含め多くの知識人が入門していたようだ。 私が知る限り、世界的な偉業をなした人達には宗教を持っている人たちが多い。なぜだろうと私はずっと以前からいつか宗教の世界に入ってみたいと思っていた。普段の日常生活の中でも、善い人間、思いやりのある人間には宗教を持つ人が多い。宗教は隣人への愛を初め心の持ち方を教える。そして教えの真髄を突き詰めた人たちは、宇宙の中の、自然の一部としての人間を見るようになる。その宇宙の構成員として自分をしっかりつかみ、外の雑音に乱されず、自然に寄り添って自分の個性を生かして行く。宗教が無ければこの世は殺伐とするだろう。 そうか~、小林秀雄も宗教を持っていたか~。感慨深い。10年以上前、初めて修行道場に行った時、その時の私の人生苦を軽める言葉はないかと、誰かれ無しに相談していた時、一人の講師がただ一言放った。「信仰を持ちなさい。」なんとそっけない人かと思ったが、今はそれが大変よく分かる。本当に変わりたいなら、本当にいい人生を送りたいなら、本当に豊かな生き方をしたいなら、信仰を持ったらいい。そしてそれを徹底的に勉強する。 ゲーテが言う「神は今も絶えず、低いものを引き上げるために、より高い人達の裡で活動し続けている」。 曲作りが変わった 1/31 メロディーはいろいろ降って来たり、意識せずとも口ずさんでいることが多いので、スマホに乗り換えて以来無用に処せられそうだったガラ系の携帯を持ち歩いてそれに録音している。かなり溜まり200曲以上あるが、歌詞がまとまらないのでなかなか捌けなかった。 近藤先生のクラスに間に合わせるために何か作っていかなければと、とにかく譜面にして何度も口ずさんでいると、そのメロディーに相応しい歌詞が生まれて来る。それも書こうととも思っていなかった詞が。で、できたのが、「人だもの」と「恋させるテントウ虫」。 「人だもの」はテレビで流されていたヨーロッパのどこかの古いメロディーのワンフレーズが印象に残り、そこから展開したもの。ちょっと重いので、今風でなく、これにつける歌詞を見つけるのは難しいだろうと”敬遠”していたら、なんだかできちゃった。人は、おそらく、誰でも誰かのために生きてみたい。持ち得る愛をすべて注ぎたいと思っているのではないだろうか。おそらく人間はそのようにできているのではないだろうか。それは自分を豊かにすることを知っている。対象は家族かも知れないし、人の助けを必要とする家族外の人たちかも知れない。そんな事を書いてみた。 まるっきり違う雰囲気のものが同時に出来たのも、ちょっと気分が良い。「恋させるテントウ虫」。友達男性の鼻にテントウムシが止まった。テントウムシは彼の鼻の上をどんどん登り、目の近くに行く。でも彼は払いのけない。目をつむって虫さんを登らせる。そんな柔らかな彼に彼女の心が揺れ始めた。思ってもいなかったテントウムシを歌にしたので、チェリッシュが歌っていた「てんとう虫のサンバ」を改めて聴いたら、歌詞が、ほんま、いいですね。詞が良いから曲も良い。107曲目 |
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私が通うジムでは、朝10時から午後6時頃までは高齢者が多い。 目がダンスする?お歳を召された方が10時から頑張ったのだから、そう言う事もあるだろう。それにしても面白い表現をする人だなぁと、私はそのご婦人に近寄り、 途端に爆笑。このジムにはメガダンスと言うラテン音楽に合わせて動くプログラムがある。メガの”ガ”を下げて発音すると「目がダンス」になる。ガハハハッ(*´▽`*) ちなみに「メガダンス」の名は、インストラクターの話によると、楽しさが「メガ」という所からつけられたらしい。本当かな?
来生で逢いたい人 4/30 今日は平成最後の日ですね。お逢いした時の印象もあって、陛下の安堵のお気持ちをお察しします。どうぞ余生をゆっくりとお過ごし下さい。 さて本題。美意識と経済観念が働いている私は狭い部屋の面積を本に支配される事が嫌で、さりとて捨ててしまうのももったいなく、本をあまり読まなかった。20年ほど前図書館の近くに住みたいと思い始めたら、なんと、住んでいるマンションの直ぐ近くに図書館が建てられた。だが、子供用に作られたのか、落ち着いて本選びや読書ができるところではない。最たるネックは、どの本を読んだらいいか分からない。高校時代にマルクス、エンゲルスの「資本論」などを取り出した事がトラウマになったのかも知れない(*_*;。しかし人生には真逆な動きが生まれる時があるもので、今では本のない生活は考えられなくなっている。それもこれも皆、”大人用”の図書館が近くにあるお陰。図書館が私の書庫だ。それ故、私の美意識が守られかつ詰まらない本を買った事への後悔と罪悪感に苛まれずに済む。納戸のある新しい部屋では本箱は納戸行き。スウェーデン製(かな?)の丈の長い本箱の上3段だけに、恐らく永久に残しておくだろう本だけを並べている。その直ぐ下の段には、殺虫剤が4本(ゴミ箱、観葉植物用)。 ディーパック・チョプラー、ゲーリー・ズーカフ、谷川俊太郎、そして最近は文芸批評家の小林秀雄等々。その小林秀雄に私は来世で是非逢いたい。学生時代にこの人のものを読んだとしても決して理解できなかっただろう。何層も上にいる人だ。だが私自身の人生での進化があって今、この人の発想の源に共感できる。 このブログの1月30日に小林秀雄についてほんの少し触れたが、彼は日本のインテリの最高層の中で神の存在を信じる知識人の一人。広大な視野からものを観、嘘が無く、自然で、心温かい人柄は彼の言葉の随所に出て来る。特に、読者の私の心をキュンとさせるのは彼の容姿と仕草に忍ぶ父性愛。作家大岡昇平による追悼録にも小林のその特徴が滲み出ている。大岡昇平によれば、当時の女流作家、宇野千代や林芙美子は、特別な関係があった訳ではないが、小林秀雄にまいっていたと言う。そうだろうよ。今生では滞在する時間がずれて逢えなかったが、来世で私は小林秀雄に是非逢いたい。その時、私のメンタルが今の辺りにあるなら、彼は私のハートをぎゅっと掴み私の恋情を高ぶらせるだろう。そして彼の痛みを私の母性が包むだろう。端正な顔立ち、優しく思索に満ちた視線、大きな鼻。。。。来世にはどんな顔立ちだろうか。そして私も。。。。。 これは、あちらにいる彼へのラブレターかも。 「静けさの中で」 4/30 アンドレア・ボチェッリの歌を聴きながらこの歌のヒントを得た。 静けさの中で目を閉じて心の内なる声を聴く。思いもよらぬ事を言われたり、失ったものたちが楽しく美しく寄ってくる。かつて一人になった時、あんなに怖かった静けさが今は進んで求めるわくわくする時間。全ての答えがそこにあるから。。。。そんな歌 ボチェッリのクラシック調の歌を聴いているせいか、ロングトーンの多い、切ないものができる。いつもの一気呵成とは行かず、のったらのったら書いたが、とりあえず纏まったかな。 |