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リサイタルPart3「美しい日々だけを連れて」に寄せられたメール 2010/6/15

1.リサイタル大盛会でしたね。お誘いいただけて非常に光栄でした。遠い人になっていかれるような強い予感がします☆とてもうれしいことです☆ShizuさんのリサイタルのことをXXXサイトに自分の喜びの投稿として書いても良いですか?もしよければ宣伝なんかもしたいのですが良いですか?本当におめでとうございます。

2.とてもよいリサイタルでした。 前回よりもずっとよかった、というのは本音です。うまくなっている、というのではないですね。(もともとうまいのですから。)深みが出ている、とか、コクが出ているとか、そんな印象です。 「朝日のあたる家」は評判通りですね。ゾクッとしました。「愛の賛歌」も、とてもよかった。(思わず口をあけたまま聴き入ってしまいました。) 今後が楽しみです。

3.
先日のリサイタルにお伺いしShizuさんのファンが多い理由が良く分かりました。素晴らしいリサイタルでした。少しでも関わらせて頂いたことに感謝しています。

4.リサイタル、大成功でしたね。歌唱力が年々アップしているのは、驚異!やはりシャンソンは、女優的な要素を持った人にぴったりなのですね。次回作(オリジナル曲)は、思い切りシャンソン的な曲にすることをお奨めします。

5. 本当にありがとうございました。素晴らしいかったです。友人も大喜びでした。今度は新宿に伺います。

6.リサイタル、コーラスも入って、これまで以上に楽しかったです。

7. Shizuさま、3周年リサイタル、ブラボー!細いお身体なのに、あのパワーすごいですね。歌う事は心の叫び?女優になりきってるShizuさま、ステキでした。素晴らしい女性に出会ったこと、感謝です。


8. Shizuさんのステージは楽しい。ただ歌を聴くだけじゃない。次には何をしてくれるんだろうって思うし、お話もとても楽しい

9. 体のラインがとてもきれい。うわ~って見とれていました。本当に素敵。私と同じ年齢などとは考えられない。一つ一つの動作も絵のよう。ドレスも本当に似合っていて、セクシーで、大人の女を感じさせました。私もこれからジム行く事にしました。

10.激励と賞賛のメールが送られてくるのも一段落し、そろそろ完全燃焼の疲労感も癒えて心地よい充足感に浸っている頃ではないか、と勝手に想像して、メールを送ります。 

まずはリサイタル後、駅まで歩く道すがら、一緒に会場にいた早大時の同じクラスの仲間達と同期が発した台詞:

「確実に、進歩しておるな」「うん、度胸がついてきた」「フランス語であれだけ完璧に歌って、日本語の歌詞を忘れるなっちゅうんだよ」「いや、あの時よく気持ちを切り換えられたよ。あのあと、一段とパワーアップした」「彼女はトークしている時より、歌っているときのほうがキレイだ」「僕の抱いていたシャンソンのイメージと違った。これまでシャンソンはただキレイキレイで、都会的で、洗練されているイメージを持っていたけど、彼女のシャンソンには<生活臭>がある」 

次は私の感想。まず、衣装が文句なく素敵だった! いつもながら静の美意識の高さには舌を巻く。一部のこげ茶のパンツルック・スタイルは、重ね着していたシースルーの渋い赤が粋でしゃれてた。二部の大胆な白のドレスも、黒ショールとシルバーの縁取り入り白ショールの使い分けが効いてた。結構ギリギリまで背中を開けてたね。松阪慶子が「愛の水中花」を歌っていたときのドレスを思い出しちゃったよ、眠り狂四郎の市川雷蔵は、普段は黒ぶちのめがねをかけたお固い銀行員風の青年で街を歩いていても誰も気づかないが、化粧して鬘をつけ着流しスタイルになるや、一変して滴るような色気をかもし出したという。これぞ役者、これぞアーチストの本領。ただのオシャレな人とは根本的に違うところだと思う(含まれた意味を汲み取ってください!) 

次に歌と構成。一部は「再会」や「声のない恋」や「オルガ」や、私も聴いたことのあるSHIZUのレパートリー曲が中心だったので心地よく聴けた。二部の「朝日の当たる家」から「イレーネの店」への流れも良かった。片手を挙げて壁にしなだれかかるポーズは芝居でもよく使われるけど、様になってたよ。「月の浜辺」はとっても気に入った! いやはや、SHIZUがこれほど大胆な曲を歌うようになるとは!コーラスの叔父様が、演技と歌の面でもうちょっと大胆にSHIZUとキャッチボールをしてくれたらさらによかったけど、緊張してちょっと恥ずかしがっている様子が客席からも感じられておかしかったな。

同期がメールで送ってきた感想に「人生をしっとりと同時に爽やかに歌ったものが多かったかな。それがシャンソンの特色なのか、曲想によるのか、それとも彼女の持ち味なのかは不明。もし持ち味なら、それが売りになるかもね」と書いてきた。「朝日の当たる家」「イレーネの店」「月の浜辺」の3曲は、下手をすれば下品かつ野卑になりかねない歌だと思うけど、そうならないところがSHIZUの真骨頂。この3曲でかなりエネルギーを使ったんじゃないかと思うよ。次に歌おうとしたカンツオーーネ「愛遥かに」の歌詞を忘れたときには、思わず下を向いて祈ってしまったが、切り換えの速さとその後のパワーアップにより、終わってみればあれもご愛嬌でありました。

「あなたとなら」の詞が素直でいい。特に「振り向いて,たたずんで、抱き寄せて」というフレーズが好き。「抱きしめる」ではなくて、「抱き寄せて」という感触がいいのね。 


同期は<生活臭>といったが、私は美醜併せ持つ<女の性(さが)と臭い>を野卑にならず、泥臭さに陥らず、洗練された美意識で歌い上げるシンガーだと言いたいところです。SHIZUがアーチストとして自分の世界とスタイルを掴みかけている。演技・ダンス・歌の素養を備え、一皮向けてすっきりと大人になったSHIZUが一人舞台を務めるプロシンガーとしての今後が更に楽しみになって来た。

11.久々に「大人の世界」を味わせてもらった。それぞれの歌に、人生のドラマ、哀愁があった。特に男と女の・・・・。「語るように歌え・・・」は何も演歌だけとは限らないと、改めて感じた。「再会」は、文字通り「語り」が「歌」になっていた。「サンフランシスコの6枚の枯葉」「声のない恋」には、なぜか目頭が熱くなった。全曲、「Shizuや、あんたは役者やのー!!」だった。

12.思っていたよりずっと良かったよ。全曲良かった。本当だよ。ただね、歌詞を忘れて、再度トライしても思いだせなかった時に、悔し涙の一つでも流してくれれば、もう、「Shizu~!」って抱きしめて愛しちゃったよ!全然悪びれないんだよなぁ。

安西さんとの出会い 2010/6/14

私がよく出席するある勉強会に、音楽の専門家らしい人がいた。少年ぽくって、時々ご自分の記事が載せられている雑誌を持参しては、皆さんに紹介されていた。シンセサイザーで音を作っているらしい。シャンソンにはシンセはあまり使われないので、つながりができるような気がしなかった。ところが、その人が後に私の自作の歌を形にし、初のCD制作を実現させて下さる人になった。安西史孝さんだ。

2009年6月、Shizuの2回目のリサイタルを開いた。タイトルは「私の歌を聴いて下さいPart2」。その呼びかけの如く、多くの方に聴いて頂きたく、安西さんにもお誘いのメールを出した。親しかった訳でもなく、その上音楽産業の中心にいるような人が、Shizuのリサイタルに来る訳ないだろうな、と思いつつも、ダメもとで出した、が、レス無し。ま、当然かも。しかし再び勉強会でお逢いした時に,勇気を集めて目の前にいる彼に声をかけた。すると意外や意外、とても軽く「あ、行きますよ!」とニコニコと答えてきた。ええっ、本当?・・・でもこの業界の人の事だから分からないわ、とあまり期待せずにいたら、当日本当に来ていた。楽屋からステージに向かう通路は、客席の入り口を通るのだけれど、その入り口付近でパソコンとにらめっこしている安西さんの姿が私の眼に飛び込んできた。本当に来ている、それもパソコンを持って。おかしいわ、と心の中で笑っていた。

私は安西さんの事をあまり知らなかった、今でも十分に知っている訳ではない。ただ、安西史孝を良く知っている業界のミュージシャンに彼が私のリサイタルに来て下さる事を伝えたら、[え?安西が行くの?」と飛び出さんばかりの眼で驚いていた。ふ~ん、そんなに特別な事なんだ、と彼の言葉が心に残った。

後日、リサイタルの感想を伺った。「良かったですよ。」とまたニコニコと答えてくれる、感じのいい人だなぁという印象を持った。その後の勉強会の後の2次会では私の横に座り自分の仕掛け中の仕事を見せてくれた。アニメを作っている。後で知った話だか、彼は伊丹十三監督の「たんぽぽ」やアニメ「うる星やつら」の作曲をしていたらしい。彼が見せてくれた仕掛け中のアニメ作品に、私はびっくり、今でも直ぐに映像として人に見せられるクオリティのものである。彼の作品を感慨深く見ていた時である、斜め前に座っていた和服姿の女性が突如私たちの会話を遮った。「あなた達、似合う!」この声に安西さんがびっくり、驚愕の態で私の反応を見ながら「あ、あ、あ、あの・・・と、と、と、と、と、歳が・・・・」(差7つ)。私も何か言わなければまずいと、一生懸命言葉を探した。顔がほてってしまっている。やっと言葉を見つけた、「きっと何らかの関係ができると思うわ。コラボとか。」安西さんがまだ“恐ろしい”ものを見ているかのような目つきで、私を見ている。 私の心の中は大声をあげて笑っている。そしてコラボが始まった。

安西さんにとって大変な試練の開幕である。右も左も分からない私の要求に応えて行かなければならないのだから。一般的な手順と言うのがあるらしい。彼はスタジオ・アレンジャーだから、普通なら歌手はプロダクションに所属していて、そこのディレクターが「・・・風のアレンジ」と伝えてくるらしい。ところが私は、プロダクションに所属している訳でも無し、こう言うところでのディレクターと呼ばれる人を誰か知っている訳でもない。また、作詞作曲はしたけれど、どんな感じのアレンジが良いのかイメージがない。と言うか、そのイメージをアレンジャーから提案されたいと思っているのである。それで彼に”まかせた”。

まもなくカントリー風のデモが送られてきた。ここが右も左も知らない人の無責任さなのであるが、出来てきたモノを見て初めて、まだ表現できないでいたが果たして自分が何をイメージしていたのかが分かって来る。「これだ」とか「違う」と言う事が。「違う」だったのである。しかし、「違う」がなかなか言い出せない。相手は大御所なのだ。「安西は天才だよ」と言う事も業界のミュージシャンから聞いている。天才がカントリーで良いと言うのだから、もしかすると本当にカントリーで良いのか。悩み悩みぬいて、ようやくバラードにして欲しいと話しかけた。綱引きが始まった。

「バラード」
「カントリーが良い」
「バラード」
「誰が何と言おうと
任せればいいんだよ!」
「バラード」
言う事を聴かんかいな(と言っている雰囲気)」
「バラード」
「・・・・・・・・・」
「バラード」
「はぁ~」

それから僅か3時間後、バラードのアレンジが送られてきた・・・・

目が覚めるとはこういう時の事だろうと思う。歌を作った本人さえも描き切れていないのに、これ以上に的確に私がこの歌で語りたいメッセージを伝える事が出来るアレンジは無いと思うほどに、私のこの歌に秘めた想いと一糸違わないアレンジが送られてきたのだ。本人も分かっていないものをなぜ他人が分かるのだろうと、感動を超えた驚きがあった。

そうやって出来上がった「美しい日々だけを連れて」である。この歌を初めて聴いた時、「うん、良い歌だ」と安西さんが言ってくれた。そんな思いもあったのか、最後まで私に付き合って下さった。安西さんとの出会いを作って下さった、目に見えない『力』に深々と首を垂れる。



レコーディング 2010/2/23

2月23日「美しい日々だけを連れて」と「あなたとなら」のレコーディングを終えた。何せ初めての事なのでどうなる事やらと、スタッフは大変不安(本人はそうでもない、でもちょっぴり不安)。それで、1曲のレコーディングに5時間かけるとディレクターの江川泉さんとアレンジャーの安西史孝さんが決めたようだ。だから2日間のスタジオ・ブッキングをしたらしい。かなり若い人なら、初めてのレコーディングの場合、″通常“1曲に8時間を取るという。でも8時間は私の年齢ではちょっときついだろうと配慮して、5時間にして“くれた”らしい。

そんな通例を知らない私は思った。よほど、私の歌を信じてないんだよね、きっと、ま、しゃ~ない、サウンド・インターフェイスを使って吹き込んたものを安西さんにメールで送っていたけれど、その歌を再生すると、どれも、どんよりした声だったし、大変注意深くリズムに合わせて歌っても、聴いてみるとほとんど常と言っていいほど、僅かにズレている。変だなぁ~自分でも少し不安になって来ていた。 でも、一度彼のピアノで直に歌った時、「家で録音している時は、狭い部屋で窮屈そうに歌っているように聞こえるけど・・・」と言っていた。もしかすると、あのインターフェイスのクオリティの問題じゃないかなぁ~、そんな疑いが実は徐々に高まってもいた。

「グェ~、5時間も?のどがカラカラなってしまうんじゃないの?」とにかく大変な事が起きるかもしれない事を覚悟してスタジオに行った。レコーディングと云うのは、一曲の歌を何回も歌いそれを録音しておいて、その中で良いところだけを継ぎ合わせてCDの音源をつくって行くのだけれど、1回の歌取りを≪take one≫と言う。どんなに良くとも念のためと言う事で最低take twoになるらしく、聞いた話では美空ひばりさんが、だいたいtake twoで終わるらしい。普通の人は何度も何度も取り、初めてのレコーディングとあればtake 20を超えるとか。「もしかすると、私もその類?」・・・ま、やるっきゃないと、水とのど飴をわんさか用意して臨みました。ところが、take twoが終わったところで、ディレクターがニコニコした顔で、そしてアレンジャーが下向き加減で上目づかいに私を見ながら入ってきた。ディレクターが言う「かなり良いんで、このままでも良いんですが、念のためもう一回だけ取りましょう」と、合計 three takes and halfで終わっちゃった(歌っている時に咳が出たので、途中からのやり直しでhalf)!!!アレンジャーの方は、こんな筈ではなかったのだが・・・と言わんばかりの顔をしながら「うん」と頷いている。時間が余ったので、ついでにもう一曲もやっちゃいましょうと、こちらもtake threeで終わってしまった。1曲5時間かけるつもりが、2曲でちょうど2時間!!

ディレクターから「かなり優秀です!」とニコニコ顔で言われた時には、これは幸先が良いなぁと、心あったか~くなりながら帰路につきました。

後日アレンジャーの安西さんとの話。「4か所ほどピッチを直したけれど、ほとんど直さなくとも良いほどのものだった」。へぇ~、わたしが!へぇ~、うわ~、ほんとう~?ずいずい、ずっこらしょっと・・・ちょっと、ほてっちゃった。

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レコーディンブ 2010/02/23

CD制作完了 2010/03/31

安西史孝さんとの出会い  2010/06/14

リサイタルPart3「美しい日々だけを連れて」に寄せられたメール 2010/06/15

リサイタルの後で
 2010/06/15

谷川俊太郎にも「ころころ」があった 2010/07/19

タップダンス再開 2010/08/18


新曲 2010/10/11

カッコ良いのも嬉しい 2010/10/13

病気が触って治る 2010/10/16

金井克子さんのダンス・ショー 2010/10/16


副都心線池袋駅 2010/10/26

プチ・コンサートを終えて 2010/11/14

台北、高雄への小旅行 2010/11/27

映画「レオニー」鑑賞 2010/11/28

Shizuから”しずこ”へ 2010/12/5

「いらっしゃいませ、喧嘩をしましょう」 2010/12/11

「DKNY(ダナ・キャラン)のドレス」 2010/12/28

映画「レオニー」鑑賞 2010/11/28

彫刻家イサム・ノグチの母レオニー・ギルモアの生涯を描いた作品。
制作、脚本、監督:松井久子

 20世紀初期のアメリカ・・・文学の道に進む夢を持ち、希望に満ちた人生を待っていたはずだったレオニー。しかし、一人の日本人青年との出会いによって彼女の人生は波乱に満ちたものとなって行く。レオニーは彼を愛し妊るが、男は一方的に日本へ帰国してしまう。シングルマザーとなった彼女は、子供とともにアメリカと日本の二つの国で、困難な時代を生き抜いて行く。わが身の不幸を嘆くよりも、潔く運命を引き受け、自分らしく生きて行こう。それが彼女の信念であり、またわが子に伝えたいたった一つの事だった。イサム・ノグチと命名された子供は、長じて「地球を彫刻した男」として世界中にその名を知られる芸術家へと成長して行く(宣伝チラシから)。

 大変自分勝手な腹立たしい男を愛してしまった。この男に翻弄されながらも子供のために強く生きるレオニーを演じるエミリー・モーティマーがすばらしい。”さらっとした表現”が何とも良い。初老の姿を演じる時には、動きが急に重くなるのでは無く、足取りに敏捷さを残す。そこに強い生命力を保持している内面が映し出され、はっとさせられた。彼女の亭主となる身勝手な男を演じるのが中村獅童。彼の小林明に似たような顔は好きだが・・・役者として彼を落ち着いてみる事が出来る日を楽しみにしたい。

 とても印象的なところがある。妻子を残して一人勝手に日本に帰国した詩人野口米次郎から「子供には父親が必要だから日本に来なさい」と言う手紙を受け取り、レオニーは日本にやって来るが、10年近くもいながら、ほとんど一言も日本語を話さない。日本人との日常のコミュニケーションは彼女の息子や娘の通訳を介して行われる。そこで米国で英語授業を取っていた時に教師のアシスタントが言った事を思い出した:個人の外国語の習得度は、本人がどのくらいその国に同化したいかに寄るところ大である。野口米次郎の人間性に辟易したレオニーには日本人と野口米次郎が重なり、決してその男の国を愛する心もその言語を覚えようとする気も起きなかったのだろう。愛しかつ愛された男の故郷の言葉は、普通なら覚えたくなるものだから。

 一つ気になった。レオニーが子供を連れて米国に戻ろうとする時、米次郎が「夫に従順な女が良いと日本に戻って来たけれど、間違いだったかもしれない」と言うような事を言うところがあるが、唐突としていた。彼がその言葉を吐く事を裏付けするシーンが事前に無い(もしかしたら、私が聞き逃していたのかもしれないけれど)。でも、全体的には、要らないところは悉くカットした松井久子さんの作品、観甲斐があった。

DKNY(ダナ・キャラン)のドレス 2010/12/28

出会った日から4カ月、とうとう買ってしまった。

8月の終わり、表参道を歩いていると、あるお店のショーウィンドーに飾られた黒のドレスが私の眼を輝かせた、『な~んて、素敵なの!』ちょうど入口に立っていた店員さんに値段を聞いた。「よんじゅう・・・・。」その後の数字は聞くに及ばず。とんでもない・・・ 

「地下にセールになっているものもあります。」 2カ月後、その言葉を思い出し、再度表参道に。通りを行ったり来たりかなり歩いて、やっと見つけたその店にはDKNYの文字。実は私、世間で有名とされているブランド名をあまり知らないし、興味も薄いからその店のブランドを確認しようともしなかった。 

地下に案内されると、赤、えんじ、白、黒、そしてブルーのドレスが上品な照明に当てられてその高級度をアピールしている。ひときわ私の眼を眩しくさせたのはブルー、詳しくはターコイズ・ブルーのドレス。あるスタイリストの言葉が浮かんだ。私に似合う色は「ロイヤル・ブルーです。」私の小さな衣装在庫にブルーのドレスは1枚もなかった。どんなブルーであろうと、目の前に「ブルー」がある。催眠術にかかったようにそのドレスに引っ張られて試着。華やいだ。これを着てステージに立った時のファンの皆さんの心の中の歓声が聞こえるよう。セクシーで大人っぽくて、品があり、華がある。。。。。でも高い。今年の秋冬コレクションなので、当分割引にはならないと言う。やっぱりやめておこう。 

それからまた2か月、ほとんど忘れていたあのドレスが急に私の頭の中にやって来て居座り続ける。出て行かない。買いなさいという事かなぁと再度DKNYへ。やはり絶賛されるような素敵さがそこにある。「実はこのドレスはまだ一人も試着する方がいらっしゃらなかったんです。もう一つの色違いのえんじの方はお試しになられる方もいらしたのですが。」一応取り置きをお願い。そして2週間後、セコンド・オピニオンを求め友人を付けての再訪。試着室から出て来たターコイズ・ブルーのドレスの私に、それで無くともいつもびっくり眼の彼女の眼がものも言わずひたすらドレスの上を歩いている「うん、、、うん、、、うん、、、」。客としてその場にいた西洋人のとてもリッチそうなご婦人の睨み眼が鋭くささった。重々分かっているけれど、そんなに良いんだ。 

ファンがとても喜ぶだろう、大枚をはたいた。買わなかったら、いまだに心が動揺していただろうなぁ。このドレスは最初から私を呼んでいたのかなぁ、そんな気がして来た。いつ着る?来年のリサイタルかな。

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「いらっしゃいませ、喧嘩をしましょう」 20101211

ある会の私がいたテーブルで面白い話がいくつも紹介された。どれもこれも面白く笑いが部屋中に満ちたけれど、次の話が一番笑いをもらった。

一人の在日中国人と一人の在日韓国人が言い合いになった。互いに相手の国の言葉を知らないから、共通語は日本語である。さあ来いとばかりに拳骨を構え互いに向き合った。ところがこう言うところで適切な日本語の喧嘩言葉が思い浮かばない。韓国人が最初に発した「いらっしゃいませ。」中国人は「・・・?」

拳骨を握った力がしなった。

 言葉の持つ力を改めて考えさせられました。よい言葉を選ぶ、幸せの基本だと、つくづく納得!

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Shizuから”しずこ”へ 2010125

10月からShizuを改め芸名を”しずこ”にしました。私の自作の歌「美しい日々だけを連れて」が20代後半から上は80歳代の方々に至るまで(きっとそれ以上の方々にも、と願いたい)多くの方々の共感を得る事でしょうと言った方がいらして、それではローマ字は控えた方が良いように思えて来ました。

それにShizuとローマ字を使った時は、自分がどう思われたいかを中心に考えていたような気がするけれど、今はファンの方々やこれからファンになって下さるかも知れない方々の側から考える事が多くなるほどに成長したようで(へぇ、かな?)。つまり、私のメンタリティーが変わったので、親しみやすさを感じる「しずこ」が良いように思えて来たんです。作詞作曲者としては今後もShizuを生かしますが。 

ところで、「しずこ」という名前は、ある朝インスピレーションのように私を訪れました。平仮名の文字と共に。しかし、なぜだか「心」はこの名前に落ち着かない。「これは良い!」と言ってくれない。私はインスピレーションに大きな信頼を寄せるタイプなので、「しずこ」できっと良いのだと思っているのだけれど、どうもしっくり来ない。これが本当に私に相応しい名前であり相応しい表記であるのか。それで、心の中で何度もこの名前を発音してみました。地下鉄の駅構内を歩いている時などは、構内に設置してある鏡の前を通る度にそれに映る私を見て「しずこ」、また少し行って他の鏡の前で「しずこ」、また「しずこ」と自分を呼んでみたんです。すると、不思議にも鏡の中の向かいの人にこの名前が相応しくなって来たんです。3つ目の鏡の前で同じ事を繰り返した時に、「よし、これで行こう」と決めました。 

しずこです。今後もどうぞよろしくお願いいたします。より広く縁結びができますように!

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台北、高雄への小旅行 20101127 

年に一回は日本を出る事にしています。他の国を見て色々考えたりする事が好きなんです。今回は近くにありながら、なかなか行く機会が無かった台湾。街中をひたすら歩いてこの国の特徴をきょろきょろ探しまわりました。

概して博物館には興味がないので、観光客は必ず行くと言う故宮博物館には一応行きましたが、やはり全く面白くなかった。

ステージ衣装にできるような服があったら買おうと、デパート巡り。そしたら、びっくり。デパートは全て日本のデパート:Sogo、阪急、三越等。私の行ったSogoや阪急はそっくりそのまま日本から持って来たような感じだから、雰囲気も置いてある海外ブランドも全て日本と同じ。大変親日派を自負する60代後半に見える男性ガイドの話だと、Sogoのバックを持って歩く事は台湾の御婦人たちの自慢であるらしい。これら日本のデパートのソフト部分は日本からの直輸入ですが、滞在したホテルのスポーツクラブの会員だと言う資産家風の御婦人の話だと、ハード部分は現地台湾人がオーナーらしい。台湾人が焼いて売っている今川焼もあればたこ焼もあるんです。台北駅から地下鉄で数駅行ったところに、癌さえ治癒されるといわれる秋田の玉川温泉と同じ石(北投石)が集まる温泉があるのですが、そこで利用したホテルには露天風呂があり、それは日本の健康ランドと温泉をミックスしたような作りで、浴衣さえでます。湯に浸かっているのは台湾人、日本人、韓国人、そしてロシア人でした。

台湾に仕事でよく来ている友人に案内されて高雄では夜市に行きましたが、夜市の入り口の空気を支配する”くさ豆腐”の匂いには私の内臓が逆さまになったように騒ぎ出しました。別な友人がお土産に携帯のストラップを買うと言うので同調して私も一つ100元と言うものを75元に負けてもらって買ったら、翌日の臨済宗の本山である仏光山ではより上質なものが一つ40元で売られていました。

オーストラリアにいたと言う20代だろうか元気な女の子が流暢に外国人客と英語で話している大衆食堂で、日本円にして120円程のバイキング・ランチをした後、Tシャツを買おうと近くの洋服屋さんへの道を尋ねたら、彼女の友人らしき白髪の交じった短いひげの細身の男性が私をバイクで案内してくれる事に。友人に頼まれたそのバイクの主は何となく恥ずかしげ、見知らぬ男性の背中に腕を回す私も勇気が要りましたが、十数年ぶりに体験する現地の人との交わりを楽しみました。

日本統治時代の痕跡が明らかに残る台湾は、その国民の特徴として穏やかさが印象的で、私が米国で英語クラスを共に受けた中国本土出身のあのにぎやかでエネルギッシュで常に大きな声でしゃべっている彼らとは全く異なる人種のような気がしました。より日本人に近いような。

デパートでたむろしていた日本人高校生3人のうちの一人が「もう台湾飽きた~」と言っているのが、通りすがりの私の耳に入って来ました。確かにエキサイトさせるような事が無いというのが最初の数日間の私の印象でもありましたが、帰国近くになると、居心地の良い国だなぁと視点が変わりました。人が良い。それを取り締まる法律があるのか、嬉しいほどに料金の安い台湾タクシーの運転手は決してぼったくらない。売り子さんたちも正直そうだし、真面目そう。ただ、英語がほとんど通じない、まるで通じないと言っても過言で無いかも。嬉しや、私は身体言語を駆使します。 

意外な事がありました。かつて韓国に行った時に、黙っていても「日本からいらしたんですか」「日本の娘がいるよ」と言われたんですが、ここ台湾では、一人黙って立っていると、台湾語が何度と浴びせられました。アジアも沢山旅したけれど、現地人と全く同格に現地語を浴びせられたのは、台湾だけだと思う。Déjà vu 現象は決して起きなかったけれど。

プチ・コンサートを終えて 2010-11-14

実は体調があまり良くなかった。プチ・コンサート当日のちょうど1週間前、衣装やメイクの相談に私を訪れてくれたヘアメイク担当の英さんがどうやら風邪の菌を連れて来たらしい。部屋に入って来た途端、“ぐしゅん”とやるのだ。“ぎょっ!”心の中で「止めてよ、止めてよ」と繰り返し祈っていた。しかし祈りの甲斐無く、彼が返った直後からくしゃみが出始める。その後咳、続いてその他もろもろの風邪の症状。直ぐに自己流の応急処置を取った。食間に葛根湯、寝る前に風邪薬、そして目の前のスポーツ・ジムでウイルス退治とばかりにサウナに浸かる。こじらせはしなかったけれど、咳が長引いた。アレルギー性の咳とははっきり異なる:ゼ~ゼ~音を立てながら器官を通って出てくる咳。「大丈夫、プチ・コンサートまでには必ず良くなる」と念じながら、3日後には通訳の仕事で出張、ホテル宿泊。あれ?今度は眼の下にぽっつり赤いふくらみが。ものもらい?ちょっと違うような気もするけれど。ものもらいなら直ぐに熱めのタオルで押さえれば治るかも。やってみてもあまり効果無し。普通なら放っておくかもしれないけれど、やはりプチ・コンサートを控えているだけに不安。取りあえず翌日出張先の近くの眼科医に。行って良かった~。ヘルペスと診断。ヘルペスなら納得。何十年もの間一緒に生きて来たけれど、一度も歓迎した事のない“友人”である。でも眼の下から会いに来たのは初めて。

 医者から軟膏をもらってつけても炎症が大きくなるばかり、頬のところまで赤く膨れ熱を持ち始めた。ヘルペス退治には医者が出す軟膏よりも、私が数十年お世話になっている光線器が一番効く。えいや!である。ホテル宿泊を取りやめ、家から早朝の新幹線に乗って就業先に通う事に。その“苦闘”が功を奏し、当日は化粧で赤みを隠せるほどに軽くなっていた。いよいよ当日が来た。まだ咳が出るけれど、少し調子が悪いと言い訳をしなくとも済むかもしれないと期待した。しかし2部の中ごろから声がしわがれて来た。"風邪声“である。やっぱり言わなければあかんか。「言い訳をしない人生」を志したのだけれど・・・・そう甘くないなぁ~

 そんな体調不良はあったけれど、皆さんしずこのプチ・コンサートを楽しんで行かれたようで、ホッとしています。しずこを見るのも聴くのも初めてと言う方が多かったからでしょうか、1部の前半は皆さんの眼がじっとステージにいるしずこに一点集中し、し~んとしてまるで葬式か何かのような、今までにない雰囲気の中で少々孤独感を感じながら進めていました。徐々にその雰囲気は壊れるだろうと思っていてもそうはならず(ま、別れの歌を中心に歌っていた事もあるかも)、何か特異なものを見るような眼で皆さん凝視されているよう。その雰囲気をからかい出した私のトークがきっかけで、少しずつクスクス笑いも聞こえるようになりましたが。

 2部の後半に至っては爆笑も起こり、やっと”つながった”と言う感じ。歌の小道具に使おうとお客様から空のビール瓶を頂く事になっていたのですが(サクラを準備)、サクラになる方が別な人に頼んだようで、歌の途中で空とばかり思って潔く口飲みしたらビールがどぼっと口の中に・・・

 「あきれたあんた」「あなたとなら」でハンケチで目頭を押さえていた方々、指で眼の下を拭いていた方々、終わりは皆さまから濃い拍手を頂きました。またまたお目にかかれますように。皆さんに楽しんで頂けるように、しずこは次のコンサートに向けて再び色々企画を始めます。ドレスも見に行きましょっと。

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副都心線池袋駅2010/10/26

副都心線の池袋駅のお手洗いには感動があります。まるでホテルのトイレのよう。使わせて頂いていると、ただただありがたく、この国に生まれて育っている事を改めて誇らしく思うのです(トイレだけでこんなに思っちゃうのかと笑う人もいるかも、ね)。トイレにいながら想像するの、外国からの旅行者が眼を丸くし頬を染めてこの公共トイレに感動している光景を。そして、それぞれの国に帰国して、いの一番にその感動をお土産話にしている事を。

日本はここまで発展したんだなぁと本当に感慨深い。先人達を含め、今の日本人が持つ美意識に改めて誇りを抱きます。かつて、日本の公共トイレは本当に暗く汚く、生理作用を我慢してまでも使いたくない嫌なところでした。それが米国などに行くと、あの当時の日本に比べると綺麗で、「ああ、日本はねぇ~」などとぼやいていました。ところがおそらく今は彼らがこの副都心線池袋駅のトイレの美しさに感動して帰るのでは。このトイレはまるで最先端の技術とデザインを駆使した高層ビルの中のトイレなみ。その進歩にただただ感動します。トイレに”必要以上に”投資する企業が存在する事に嬉しさが込みあげてきます。

20年以上も前の事だけれど、会議のため米国から日本にやって来たある建設会社の社長が、トイレに行き目線定まらずの態でテーブルに戻って来ました。表情が違うので、どうしたのかと怪訝な顔をしていたら、席に着いたその社長が開口一番言われた事は、彼が座って来たらしいウォッシュレットの事。素晴らしい素晴らしいを連発し、これをアメリカに広められないかと話していましたっけ。本当に日本のトイレは綺麗になりましたね。副都心線池袋駅のトイレは、日本人の美意識を凝縮したところかも。

金井克子さんのダンス・ショー 2010/10/16

STB139で金井克子さんのダンス・ショーを見て来た。STB139はとても素敵なレストラン・ライブ・ハウスで、いつか此処のステージでと思っている。私もステージに僅かながらダンスを取り入れるので、金井さんがどのようにSTBのステージを使うのか、またダンス・ショーがこのライブハウスでどのように映るのか勉強しに行った。 

金井さんを含め3人のダンサーが、衣装を何度も取り変えて現れお客の眼を楽しませてくれる。違和感が無くこのライブハウスにとても良く収まっていた。ドリームガールズのナンバーを歌った時は、彼女たちがクラブ・シンガーだった時は丁度こんな感じだったのだろうなぁと想像させてくれる。驚いたのは、金井さんがダンサーたちとほとんど一緒の量だけ踊っていたと言う事。よくあるパタンは、歌手が歌って、その横か後ろでダンサーたちが踊るのだけれど、金井さんはダンサーたちと一緒に全く同じ量を踊っている。御自分の強みがダンスだと言う事をよく知っていらっしゃるからなのだろう。ほとんど最前列にいた私には時々しんどそうに見える処もあったけれど、それが見えたからこそ、彼女の必死さが伝わり、ある種の感動があった。ソロのダンスならまだしも、3人で踊るとなると、合わせるのに時間とエネルギーがかなりいる。バンドとの音合わせのウン倍になる。何回もリハをやっての事でしょう、3人とも完ぺきに近いほど揃っていた。すごいなぁ、彼女の人柄が伺えるよう。

 実は金井さんとは、ずっと昔にダンススタジオで御一緒させて頂いた事がある。大きく動いていらっしゃった。他の方々のショーを見ていると、自分の居場所が分かる。私は何を出して行けば良いのか、と言う事が。やはり私は歌を聴いて頂こう。情景が見えるような歌を、少しの動きとともに。

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気が触って治る 2010/10/16

住民とともに作る医療を提唱され諏訪中央病院の院長でいらした鎌田實氏の「がんばらない」と題された本の中のお話が大変印象的。なにか、こう、眼が覚めるようなお話です。

鎌田医師がまだ青年医師の頃、よしさんと言う70歳を少し超えた方が鎌田医師の処で高血圧と狭心症の治療をしていたそうです。 

「診察を終え、外来を出ていくとき、偶然、よしばあさんの手が僕の股間に触れた。2週間がたち、よしばあさんが外来にやって来た。狭心症は起こらず、よい経過だったようだ。
 嫁の話をしたりしてなかなか席を立たない。僕が横を向いたとき、よしさんの手が伸びてきた。再び偶然が起きたのである。さらに2週ごとに偶然がくり返された。若かった僕は防衛線を張って外来に臨んだ。今日こそは絶対に触られないぞ。
 その頃すでに、外来の看護婦さんたちは、僕らの静かな戦いに気が付きだしていた。
 今日はばあちゃんが、どんなテクニックを使ってくるのか、KAMATAがどんな手で逃げるのか、看護婦さんたちの楽しみになり出していた。・・・・多彩な新手をくり出してくるよしさんの前に、青年医師はみじめな敗北をつづけた。 看護婦さんたちがささやきだした。『どうも先生は楽しんでいるのでは・・・』とか『気持ちがよさそうよ』とか。まさに青年医師にとっては地獄の板挟みであった。
 しかし変な事が起きたのである。ぼくが三井記念病院に研修に出たとき、代役をしてくれた先生が部屋じゅうを逃げまわり、よしさんは夢を果たせず、すごすごと帰ってしまった。その後、起きてしまった。本当に久しぶりによしさんに狭心症が起きた。
 僕は東京から帰って来てその事を聞かされた。それまで、どうしてもイやだな、気持ち悪いなと思っていたのが、ふっ切れた。狭心症の特効薬のニトログリセリンよりも、僕の///の方が効くんだ。余分な薬も増やさず、それから約15年、同じような攻防を繰り広げながら、よしさんは狭心症もあまり起こさず、八十余年の人生を閉じた。 
 毎朝、よしさんが診察室に入るとげらげら大笑いになる。八十歳を過ぎたよしさんの高笑いが、今も忘れられない。」

鎌田医師は、「70になっても、人は人に触れていたい。治療する事は“手当て”である」と締めくくる。 

この話を読んだ時に、笑いが与える効果の大きさを改めて知らされたと同時に、“原始的”なる事が生む自由さと言うか、感慨深いものがありました。人間が集まる社会においては秩序なるものがあってその秩序をベースにした善悪の基準があるわけですが、この原始的なるところで、人間の病も治る。やはり病は社会生活をするが故のストレスからくるのかもなのかもしれませんね。そう言えばTake it easyという英語のあいさつ文がありますが、その言葉の奥の深さを改めて思います。鎌田先生の著書「がんばらない」は英語でいうと正に"Take it easy"ですね。

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カッコよいのも嬉しい 2010/10/13

「カッコ良いですね。」今年の4月に月例ライブに来て下さった40歳の青年実業家が、ステージが終わってこうコメントした。「カッコいい?」「ええ、カッコいいですよ。」“カッコいい”を狙った事も考えた事もなかったので、彼のこの感想に面食らった。それとちょっと“不安”になった。同じ世界にいるのかなって(笑)。6月のリサイタルが終わり、今度は50代の男ざかりの方々が「Shizuさんカッコイイね」と言っているらしい。また“カッコいい“・・・私だけがエイリアンなのかな?ほんと、全く狙っていない。ただ、歌に相応しい動きをするだけ。あくまでも“相応しい“動き。その後、また同じ言葉が放たれた。親しくさせて頂いている先輩が、私を見るなり、「カッコいいねぇ!」と声を上げたのだ。うん?!考えてみれば、この言葉を使っている人達はみな男達だわ。そうかぁ、男たちはこの言葉を使うんだぁ、この言葉に一種の憧れがあるんだわね、きっと・・・「ええ、私はかっこ良く行きたいと思っていますよ」と上の青年実業家が言っていたっけ。 

それがある日の事、スポーツジムで泳いでいたら、それまでお目にかかった事のない年配の女性がわざわざ水の中にもぐって私の手足の動かし方を見ていたらしい。私がプールの端まで泳ぎきると、突然「あなた踵をもっと90度に曲げて蹴ったら、ずっと早く進めるわよ。あなたの泳ぎ方カッコいいもんねぇ」と来た。ええっ!どうにか平泳ぎを苦無く出来るようになった私の泳ぎが"カッコいい”??もう、“カッコいい“と言う言葉を聞くのがだんだんと嬉しくなっている時である、うわっ!そうしたらその横にいたもう一人のやはり年配の女性が、憧れの眼差しで「ほんと、カッコいい」と話に加わって来た。うわわっ! 

これからも多くの方々の夢を壊さないようにしましょ。(●^o^●)

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新曲 2010/10/11

1.5か月頑張ってみたけれど、タップダンスを続けるのは諦めました。どうも踵が「やめて欲しい」と叫んでいるみたい。心は"やりたい"と言っているから、迷いに迷って、最終的には神様に聞く事にしたんです(笑、つまりインスピレーション)。そうしたら、「やらなくても良い」と。「やらなくても良い」と言う事は「やっても良い」とも言えると自己弁護して(こう言うのを屁理屈と言うのよね)もう一レッスン挑戦してみたけど・・・・う~ん。それでよく考えてみました、私のステージングの事。確かに必ずしもタップダンスで無くとも他のダンスでも来て下さる方々に喜んで頂けるし、ステージでタップをするとなると、タップを鳴らすための板も運ばなければならない。そうすると今の環境では裏方を引き受けてくれる友人の負担も大きい。う~ん・・・確かに「やらなくても良い」と言えるなぁ。よし、止めよう。レッスンでやさしく一緒に動いてくれたり、いつも「大丈夫かな」と目配せしながら教えてくれたヤング・レディー達とも、もう逢えないと思うと残念だけれど、しゃ~ない。

ところで、「美しい日々だけを連れて」をCDリリースした後に新しい歌が生まれました:「。。。。。。」(余りにも魅力的なタイトルを思いついたので、リリースまではナイショ)。最近熟年の方々との交流がとても多くなって、お話を聞いているとびっくりする事がとても多い。あれは3年前だったかしら。70歳を超えた女性でしたが、「私、好きな人が出来たら結婚したいの。その人に申し訳ないから身辺は綺麗にしておきたいの。それに今、抱かれたいと思う男がいないもの(うぐ)」と言った方がいらしたの。その事を他のやはり70歳代の方にお話しすると、平然として「そうよ」と頷かれたんです。その反応に驚き、私の心には感動が走りました。ごく最近にも76歳の方が結婚願望を話されていた。彼女たちだけでなく、私の周りにいる60歳代70歳代の方々のエネルギーは、いつかはそこに行く私を嬉しがらせてくれるほどに、すごい。それで、そんな彼女たちをテーマに作った歌が「。。。。。。。」。試験的にライブで歌ったら、びっくり!歓声は男性達からのものが大!!!(その日のピアノによってもかなり雰囲気の違いが出ますが)スイングのリズムに合わせたとても乗りの良い歌です。皆さんに披露するのが待ち遠しい。11月のプチ・コンサートまでには、かなり完成した形になっているのではないかと思います。

それからもう一つ「今朝のバラ」も完成させる過程に入り、メロディー譜がアレンジャーの安西さんの手に渡りました。こちらは娘が嫁ぐ日に、生まれた時から今日の晴れ姿に至る過程を回想しながら娘の幸せを祈る母の歌です。この歌のさびの部分がとても美しい旋律となって表われ、それが古風な詞と調和して、華やかでありながらしっとりした歌に仕上がりました。

タップダンス再開 2010/8/18

この8月、25年間プラスチックの衣装ケースにずっと閉まったままのダンスウェアを取り出し、タップダンスのクラスに行き始めた。25年、この間衣替えの季節を幾度も迎えたけれどなぜか捨てずにいたダンスウェア。時々ステージ衣装のアンダーに使う事はあっても、それを買った当初の目的で再び着けるようになろうとは思いもしなかった。

様々なダンスをしていた。バレエ、モダン、ジャズ、そして少しのタップとフラメンコ。東欧のフォークダンスに触れた事もあった。初めてタップ・シューズを履いたのは、25年以上も前、まだロスにいた頃。その時から数えると30年近く経っているのでは。はぁ~、私はまた始めるんだぁ、あの頃のように・・・とても感慨深い。ずっと着られる事もなく置き去りにされたダンスウェアは買った当時の形と色を保存しているが、伸ばすとぴしぴしと音を立て形崩れし始めた。ゴムに弾力性が無くなり着て動いていると肩の部分がずり落ちる。

クラスは1時間20分。受けている人はほとんどまだ目に輝きを放つ20代の若もの。私もこんな風だったのだろうなぁと思いながら、あの頃のダンススタジオと同じく部屋の壁一面を覆う鏡に、彼らとは“異質”に見える自分を映す。照れるような嬉しいような誇らしいような。

レッスンが始まり基本ステップで何度か靴を鳴らす。土砂降りの雨に打たれたように全身に汗が流れる。かなり動いた気がするが、時計を見るとまだ20分しか経っていない。昔なら、それでもクラスの進行について行っただろうけれど、今はマイペースを取る度胸も付いたし、インストラクターも多いに納得。一言告げて、部屋を出て一人休憩。

うわ~、すごい。初レッスンの後の一週間、下半身が重い石となった。可笑しいのか喜んでいるのか、笑みがこぼれる。しかしその感覚に交じって少しの心配が頭の中を横切る。昔痛めたかかと。長年ダンスをして来た人によくあるらしく、ある時期から筋肉の伸縮に柔軟性を失い朝の起床直後の最初の動きが順調で無くなる。かかとを床につけられない。筋肉が自ら伸びてくれるまでの数分間つま先立ちで歩かなければならない。それがテニスを始めてもっとひどくなり足底板という、身体の重心がかかとに掛からないよう、土踏まずに重心を吸収させる装具を付けて歩かなければならなくなった。ちょっと怖い。いや、この恐怖心がいけないのかも。もしかすると足がもっと強化されて良いのかも。

One lessonで止めようかどうか迷ったまま、2回目のレッスンに。ステップも適当に選択しながら動いていたら、あら、いつの間にか40分が過ぎている。もう少しやってみよう。

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谷川俊太郎にも「ころころ」があった 2010/7/19

「ころっころりん ころっころりん つまづいて ころんで 巡り合い」

「ころっころりん ころっころりん 歩いて 走って 見つめ合い」
「ころっころりん ころっころりん 振り向いて たたずんで 抱き寄せて」

これは、私が作った「あなたとなら」の歌詞の一部なのだけれど、ここで繰り返されている「ころっころりん ころっころりん」は、ただごく自然に歌となって出てきた言葉で、なぜこの言葉なのかその理由を深刻に考えた事はなかった。だけれど、最近,にわか文学“少女”になって(戻って?)谷川俊太郎を読んでいたら、「ころころ」と言う彼の詩を見つけ、「ころっころりん」を選んだ私の理由を彼から教えてもらったような気がした。 

ころころ

ころころと 心はころがる
あっちへ 
こっちへ

ころがって ぶつかる
あっちの心と 
こっちの心

だが時に
一瞬に溶け合う
朝の光に 艶めく
みどりの葉の上で

ふたしずく
露のように 

「ころっころりん」を口ずさんでいた時は、二つの少々重たい毬のような球のようなものが転がってどこかでぶつかって更に転がって行く様子を漠然と描いていたのだけれど、実は私が意味していたのものは確かに上の詩とほぼ同じであった。詩よりも散文的な歌の詞となって。

「あなたとなら」を書いた1年ほど前に、どこかで同じような事を考えている方がいらして、素晴らしい詩にして下さっていた。その動機はきっと異なるのだろうけれど、星が一つ二つ瞬いている夜に、または日溜まりの鮮明な景色の中で、まだ彼の作品を読んだ事もなかった時に、その詩人が私と同じ事を表現するために私と同じ言葉を紡いでいたのだと想ったら、真空の器の中に突然輝きを放って空気が微振動しながら入りこみ広がって行くような歓喜が訪れ、やがて眼から幾つかのしずくが落ちた。どうつながっているのか今はまだ分からないけれど、「美しいなぁ、人生って」と感じ入ってしまった。(なんだか私のここの表現、文学少女に戻った気配が映し出されているような・・・感応しちゃったのかしら)。

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リサイタルの後で 2010/6/15

終了後、メークは普段のメークに変えるつもりでいたのだけれど、ステージメークの自分の顔に慣れたのか、「このままで良いね」と、少しばかり直して、ほとんどステージメークのまま、応援に駆け付けてくれた友人たちが待っている赤坂の焼肉屋さんに向かった。みんなちょっと”興奮”気味の感じ。本当に喜んでいる様子だった。良かった!昨年のリサイタルにも来て下さって、銀座で先生と言われて名の知れているらしい、非常に洗練されたファッションを身にまとった眼鏡店の経営者兼スタイリストだという、もうそろそろ友人になる気配のする人が、来年の私のステージ衣装とヘアメークは絶対自分が担当し、イミテーションのアクセサリーは付けさせないと言ってくれる。とても嬉しいけれど、今のヘアメーク担当の英さんに申し訳ないからと言うと、では彼と一緒にやってくれると言う。今から来年の私のステージで腕をふるうのが楽しみらしい。あれ、まぁ。

初めて私の歌を聴いたと言う、私の前の席に座った米国帰りの彼女は、じっとわたしを見るばかり。やっと発した言葉が「私は今日からあなたのファンになりました。」ほんとう?そんなに喜んで下さったんだぁ!本当にうれしい。私は皆さんと一緒に成長して行きますと、この絆をしっかりと握っちゃいました。


荷物運びやその他バックステージの仕事をして頂いた悦子さんが打ち上げも終わって家までまた荷物運びを手伝って下さった。エレベータに二人で乗ると、男性が一人私の顔をじっと見ながらエレベータに乗って来た。エレベータのドアが閉まりかけようとした時、突然「やっぱり止めた」と言って、その男性は降りてしまった。キョトンとしている私たち。その後自宅に向かう悦子さんを途中まで見送り、再度エレベータに乗ると、今度は女性が同乗して来た。先に降りたこの女性に「おやすみなさい」と言うと彼女は無反応で自分の部屋にそそくさと消えて行った。「変なの!」・・・・部屋に戻り洗面台の鏡の前に立った、「あははは…このメークだわ!」

CD制作完了 2010/3/31

CDのマスタリングが終わったという。真顔で「本当に良いですよ!」とディレクターからCDに焼き付けた音源を渡された時は、きっと誰にでもそのような表情で同じ事を言うのだろうなぁと思い、頂いたものを家に持ち帰っても、怖くてなかなかプレヤーにかけられない。CDから他の人の声が聞こえればよいなぁと心の隅で思ったりして。でも恐る恐るかけてみると、・・・「悪くないかぁ」とほっとする。それでも、1回聴くのが精いっぱい(結構憶病なんだなぁと思ったりして)。後日、いまさら手直しできる訳でなしと、覚悟して、コンポの前に椅子を移動し、腰を据えてじっくり聴いてみると・・・・「良いじゃん、この歌!」手直しできるものなら、そうさせてもらいたい部分もあるけれど、聴けば聴くほど良さが分かる歌だと確信しました! 

CDのジャケット撮影も終わり、歌の雰囲気にとてもよく合った写真が出来上がりました。プロのカメラマンて、やはりすごい! 40歳代の美人カメラウーマンの石黒ミカコさんで、彼女の被写体になっている事に少し萎縮しちゃいました。写真撮影が終わって、今はジャケットデザイナーの福地純子さんの出番。完成まではまだ様々な工程があるらしい。ふわ~!ひとつのCDを作るのに“ぎょうさん”人が関わるのです。トップQualityの方々の手に委ねると、本当に素晴らしいものが出来上がるものだと、関わって下さった皆様と出会えた御縁に、やはり何か自分の力を超えたものに動かされている気がしてくるのです。

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